●ブルガリア
ヨーロッパ ブルガリア共和国 AD
正式国名 ブルガリア人民共和国【総記】バルカン半島南東部に位置する国で,北部ではドナウ河を隔ててルーマニアに,西部ではユーゴスラヴィアに,南部ではギリシアに,東部では黒海に接する。国の中央部を東西にバルカン山脈が走り,南部にはロドーペ山脈があり,国全体に山地や丘陵が多い。西部の盆地にある首都ソフィア(人口約105万人)から,バルカン山脈の北と南に沿って交通路が分かれている。北部はバルカン山脈とドナウ河のあいだの比較的広い台地で,内陸的で乾燥した気候である。都市としてはプレヴェン・トゥルノヴォ・コラロヴグラードから黒海沿岸のヴァルナにいたるが,途中からドナウ河北部のルーマニアのブカレストへいたる道が分かれ,その途中にルセがある。もう一つの南のルートは,ソフィアを出て,バルカン山脈とロドーペ山脈のあいだを流れるマリツァ河に沿って,プロヴディフ・ディミトロヴグラードを通り,トルコのイスタンブールに通じるが,途中を北へ抜け,スターラ=ザゴラをへて東進し,黒海沿岸のブルガスへいたるルートもある。バルカン山脈の南部は地中海性気候で,果樹園やバラ園が多い。
ブルガリアの総面積は11万900平方km,人口は886万人(1981),その85.6%がブルガリア人であり,少数民族にトルコ人・ジプシー・ユダヤ人・アルメニア人・ロシア人・ルーマニア人などがいる。ユーゴのマケドニア共和国住民と共通の“マケドニア人”約20万人は,戦後独自の民族として扱われてきたが,1960年代末からブルガリア人だとされるようになり,ユーゴスラヴィアとの対立が発生している。産業面では,精肉・野菜・果物の缶詰・瓶詰,タバコ製造などの食品工業や,野菜・果物などの農業が伝統的に盛んで,現在でも輸出面で強みを発揮しているが,第二次世界大戦後共産党政権のもとで工業化がすすみ,機械製造・金属加工などが大きく伸び,1960年代初めには国民所得中に占める工業の比重が50%を超えた。60年代には農業がほぼ完全に集団化された。1969年以降,農工複合体が編成されている。
【中世王国の盛衰】現在のブルガリア地域には古代にトラキア人が定住していたが,マケドニア王国・ローマ帝国に支配されたのち,一時的にゴート族に征服された。6世紀以降南スラヴ族がドナウ河を越えて南下,定着した。7世紀後半にモンゴル系の遊牧民ブルガール族(ヴォルガ方面から来たのでこの名がついたといわれる)が南下し,南スラヴ族を支配したが,数的にも文化的にも劣勢であったため,その後2世紀ほどのあいだにスラヴ系の文化と言葉を受け入れ,その後種族的にもすっかり同化され,名前だけを残すこととなった。ビザンツ帝国支配下のバルカンで,その支配を最初に脱したのはブルガリアであった。9世紀のボリス(在位852〜888)王はビザンツからキリスト教を受け入れたが,その子シメオン(在位893〜927)の時代にブルガリアは最盛期を迎えた。彼は自らをツアー(皇帝)と称し,コンスタンティノープルから独立した総主教座を国内に置き,帝国の領域を現在のブルガリアだけでなく,マケドニア・セルビア・アルバニアの一部にまで拡張した。帝国は11世紀初頭に制圧されたが,同世紀末に独立を回復,13世紀のイヴァン=アッセン2世(在位1218〜41)の治世に,以前の版図をしのぐ第2次ブルガリア帝国が出現し,商業や芸術が盛えた。しかし彼の死後帝国は分裂し,1331年にセルビア王国に併合された。14世紀中ごろバルカン半島に進出してきたオスマン=トルコは,1385年にソフィアを,1393年に当時のブルガリアの首都トゥルノヴォを占領,その後5世紀近くにわたってブルガリア人はトルコの支配下に置かれた。
【ブルガリアの独立】トルコの支配は宗教上・言語上の強制を伴わず,初期には抑圧的ではなかったが,18世紀以降トルコ帝国が衰退するにつれて収奪がひどくなり,ブルガリア人農民たちは山中に逃げ込んで義賊(ハイドゥト)となった。中西欧から遠く,トルコの首都に近いため,ほかのバルカン諸国よりも民族の覚醒が遅れたが,それでも1762年にはアスト山の僧侶パイシーが『ブルガリア人,その皇帝と聖者の歴史』という本を書いて,中世の栄光をブルガリア人に伝えようとしたし,19世紀に入ると,ロシアやルーマニアに住みついていたブルガリア人も民族意識の伝達に貢献した。列強ことにロシアは,それを利用しようとしてブルガリア人留学生の教育に力を注いだが,留学生の多くはナロードニキの影響を受け,革命派として帰国した。1828年を皮切りに民族解放をめざす蜂起がブルガリアでも頻発したが,すべてトルコ軍に鎮圧された。他方,1870年にトルコがギリシア総主教から独立したブルガリア総主教区を認めたことは,ブルガリア人の民族的自覚の確立に重要な役割を果たした。
1875年にバルカン中部で対トルコ蜂起が発生し,翌年ブルガリア人も立ち上がったが,トルコは3万人を殺してそれを鎮圧した。“キリスト教徒の虐殺”のニュースは,ヨーロッパ中に衝撃を与え,それを背景にロシアがトルコに開戦した。勝利したロシアは,1878年3月にトルコとサン=ステファノ条約を結び,セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの完全独立と,ブルガリアを自治公国とすることを認めさせた。この自治公国の領域がマケドニア全部とトラキアの大部分を含み,さらに,そこにロシアの影響力が及ぶことに諸列強や近隣諸国が強く反発し,国際会議の結果,7月に結ばれたベルリン条約では,ブルガリアは三分され,トラキア地方は「東ルーメリア」というトルコの属州となり,マケドニア地方はトルコに返還された。1879年に中部ドイツのバッテンベルクの王子アレクサンドルが大公に選任され,1886年には東ルーメリアの併合に成功した。同年アレクサンドルが退位し,ドイツのザクセンからフェルディナンドが迎えられ,フェルディナンド1世(在位1887〜1918)を名乗り,1908年の青年トルコ党革命の機会にブルガリアの完全独立を宣言した。独立宣言の翌日,オーストリア=ハンガリーは,ボスニア=ヘルツェゴヴィナの正式併合を宣言したが,それは南スラヴ諸民族を刺激した。1912年にセルビア,モンテネグロ,ギリシア,ブルガリアはバルカン連盟を結成,バルカン半島からトルコ領を一掃すべく第1次バルカン戦争を開始した。孤立したトルコは敗北したが,トラキア方面で戦うことを余儀なくされたブルガリアと違って,マケドニアでトルコ軍と戦ったセルビア,ギリシアは同地方を占領した。それに憤慨したブルガリアはセルビア・ギリシアに戦いを挑んだが,この第2次バルカン戦争ではルーマニア・トルコを含む全バルカン諸国を敵に回すことになり,敗北してトラキア地方の多くをトルコに,南ドブルジアをルーマニアに奪われた。復讐を狙うブルガリアは第一次世界大戦では,マケドニア全体を与える約束をした中央同盟側に立ったが,再び敗戦を迎え,今回はエーゲ海への出口をもギリシアに奪われてしまった。
【現代ブルガリアの歩み】敗戦後の政治危機のなかで1919年に行われた総選挙では,左翼急進主義の農民同盟が票の3分1を獲得して第1党に,共産党が5分の1を得て第2党になり,農民同盟のスタンボリースキが政権をとり,対内的には農地改革・税制の改革,対外的には近隣諸国との協力の方針を打ち出した。しかし,マケドニア領有をめざしてユーゴやギリシアでテロ活動を行っていた IMRO(内部マケドニア革命組織)や軍部が1923年にクーデタをおこし,スタンボリースキを殺害した。その後のブルガリアでは IMRO によるテロが荒れ狂い,国際的孤立が明白になったため,1934年にヴェルチェフ大佐ら行動派将校がクーデタを挙行,IMRO を制圧し,強権的ではあるが農民を救済する政策を行った。しかし軍部内で対立が発生し,1935年には国王ボリス3世(在位1918〜43)は個人独裁制をしいた。ボリスはイタリア・ハンガリーなどの“修正主義”国家と接近,第二次世界大戦中の1941年3月に三国同盟に加入し,ドイツがユーゴスラヴィア,ギリシアを占領すると,それに呼応してマケドニアや西トラキアを支配下におさめた。しかし,国民はもともと親露・親ソ的であるうえに,弾圧されたとはいえ共産党勢力も根強く,反枢軸パルチザン戦争が広範に行われた。マケドニア人のなかにも,ブルガリアによる“解放”を喜ぶよりも,チトーの率いるパルチザンに参加するものが多く現れた。
反攻するソ連軍が国境近くに迫った1944年9月に,労働者党(共産党)や農民同盟などにより2年前に結成されていた「祖国戦線」がクーデタを挙行し,ゲオルギエフ政権が誕生した。旧体制指導者多数が戦争犯罪のかどにより死刑を宣告された。1946年9月に国民投票の結果王制は廃止され,人民共和国が宣言された。10月の総選挙ののちディミトロフ内閣が成立したが,「祖国戦線」内部にも追及の手は伸び,1947年に農民同盟指導部が反国家陰謀のかどで逮捕され,党首ペトコフは処刑され,社会民主党幹部も長期刑を言い渡された。労働者党は1948年に,残った社会民主党左派を吸収して共産党の名称に復帰し,指導権を確立したが,やがて党内の粛清が始まった。ディミトロフらと違って国内でパルチザン戦争を指導したコストフは,ディミトロフが病気になったあと首相代理に就任したが,ソ連との経済交渉において不当な要求に抵抗した。1949年3月に彼はその地位を追われ,12月に“チトー主義者”として裁判にかけられたのち処刑された。1950年に“モスクワ帰り”のチェルヴェンコフが首相になり,やがて党書記長をも兼任して“小スターリン”となった。1949年から開始された5カ年計画では,極端な重工業優先政策と農村集団化政策が打ち出された。1953年にスターリンが死ぬと,チェルヴェンコフは農業政策の改善・生活水準の向上を約束し,1954年に党第一書記の地位をジフコフに譲った。1956年のスターリン批判ののちチェルヴェンコフが批判され,コストフが名誉回復されたが,1957年には引き締めが強化され,チャンコフ・テルペシェフら“国内派”が指導部から追放された。1961年にソ連で第2次スターリン批判が行われると,ブルガリアでも1962年にチェルヴェンコフが党から除名され,同じ系統のユーゴフが首相の座を追われて,ジフコフが首相を兼任した。1964年にソ連でフルシチョフ党第一書記が解任されると,ブルガリアでもフルシチョフに密着してきたジフコフを批判し,より自主的な路線への転換を求める気運が発生したようである。1965年4月になって外務省アジア局長やソフィア地区軍司令官を含む数人の高官が逮捕された。この事件ののち,ジフコフ政権はソ連との友好協力をことあるたびに強調し,東欧内でもひときわ目立った親ソ政策を展開すると同時に,労働者を企業経営に引き入れる生産委員会の制度を設置するなど,改革の姿勢を示した。1968年のチェコ事件の際にはソ連とともに軍事介入に参加し,ユーゴスラヴィア・ルーマニア・アルバニアの強い反発を招いた。そのころから〈マケドニア人とはブルガリア人なのだ〉との主張を明示しはじめ,領土回復要求でなく“歴史論争”の形ではあるが,ユーゴスラヴィアとの対立が再燃した。1971年に新憲法を採択,国家評議会を新設し,ジフコフ党第一書記がその議長を兼任し,首相にはトドロフが就任した。1974年にキプロス冒険が失敗し,ギリシア軍事政権が崩壊したのち,同国を中心にバルカン協力の気運が盛り上がったが,ブルガリアは2国間協力を優先するとしてそれに消極的であった。ところが,米国製新型ミサイルのイタリア配置が決定され,ソ連が対抗上ブルガリアへの新型ミサイル配置を示唆した1984年から,ブルガリアは「バルカン非核地帯化」とバルカン協力を熱心に唱え始めた。ブルガリアは東西貿易と西側からの技術導入に熱心であり,また1982年以後企業の自主性と独立採算制を強める「新経済メカニズム」を経済全体に導入した。
【言語・文化】ブルガリア語はスラヴ語の一つで,セルビア語・クロアチア語などと並んで南スラヴ語に属する。その特徴は,名詞の格変化がなく,格の関係を前置詞で表すこと(マケドニア語と共通),不定法構文の代わりに接続詞 da によって導かれる句を使うこと(セルビア語・マケドニア語と共通),などである。ブルガリア人は,キリスト教布教のためギリシア文字を基礎にして最初にスラヴ語の文字(キリル文字)を考案したキリルとメトディーはブルガリア人であると主張し,誇りにしている。古代教会スラヴ語で書かれた10〜11世紀の文献には,ブルガリア語の方言的特徴を示すものが少なくないといわれる。他方では,現代ブルガリア語の上記のような特徴は,古代教会スラヴ語と直接つながるものではなく,中世後期に形成されたのだとの説もある。オスマン=トルコの支配下でも宗教と言語は固有のものが許されたが,その間に文語としてのブルガリア語は失われた。19世紀に民族意識が再生し,1835年にガヴロヴォで最初のブルガリア人学校が誕生して以来,同種の学校は急速に各地にひろがり,10年後には50近くを数えるようになり,またブルガリア語の新聞も発行されるようになった。同国の文盲率は1934年に成人男子20.4%,成人女子42.8%であり,当時のバルカン半島ではきわめて低水準であった。それは同国の農村が平等主義的であったことの反映であると同時に,後発発展国が文化や教育に注ぐ熱意のほどを表すものであったと思われる。
ブルガリアの近代文学は,19世紀半ばの叙情詩人スラヴェイコフに始まる。さらに,1860〜70年代の民族解放闘争の波のなかで,愛国的詩によって闘争に強い影響を与えた革命詩人ボテフ,解放闘争を小説・戯曲などに描いて“国民文学の父”といわれたヴァーゾフなどが現れた。1878年以後は,農民社会を描き,現状を告発する批判的リアリズムが生まれ,第一次世界大戦前後のプロレタリア文学の系譜につながったほか,フランス象徴主義,ダダイズムなどの影響も一部にはみられた。第二次世界大戦後は,一時“社会主義リアリズム”一色になったが,1960年代に入って幅のある作品もみられるようになった。美術の面では,中世のビザンツ様式の教会やその壁画が有名である。音楽は,南スラヴの民俗音楽にトルコの影響が加わり,哀調を帯び,繊細で複雑な旋律を特徴とする。オペラも盛んで,ことにバス歌手には国際的に有名な人が輩出している。
宗教面では正教徒が伝統的に多く,人口の85%を占め,イスラーム教徒が13%であったが,第二次世界大戦後は社会主義体制のもとで無宗教者が増えている。ギリシア正教とブルガリア正教の関係については,歴史の部分で述べたとおりである。興味深いのは,中世の第1次ブルガリア帝国のペトル(在位927〜969)の治下に,マケドニア地方の僧侶ボゴミールがブルガリア正教と近東の二元論的マニ教を混合させて編み出した教義にもとづく“ボゴミール派”である。既存の教会秩序を否定し,結婚・肉食・飲酒を敵視するその厳格な教えは,ボスニアなどにひろがり,12世紀にはイタリア・フランスにも波及した。
〔参考文献〕木戸蓊『バルカン現代史』1977,山川出版社
香山陽坪『ブルガリア歴史の旅』1981,新潮社
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