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●プランタジネット朝 プランタジネットちょう

ヨーロッパ 英国 AD1154 プランタジネット朝

 1154年にヘンリ2世により開かれ,1399年にリチャード2世が廃位されるまでのイギリス王朝で,8人の国王が交替した。プランタジネットとは,ヘンリ2世の父が,えにしだの枝をかぶとに挿して家紋としたことに由来する。この王朝の前半には,ノルマン朝以来の集権的封建国家機構が発達したが,後半になると,中産階級の勃興もあって,身分制国家へと移行した。

【ヘンリ2世(在位1154〜89)】ノルマン朝末期にスティーヴンとマティルダの争いがあったが,両者は妥協し,スティーヴンの死後,マティルダの子でアンジュー伯のアンリが王位を継ぐことが決まった。そして1154年にヘンリ2世として即位し,新王朝が開かれた。彼はフランスのほぼ西半を領有したままイギリス王となったため,この王朝を通じて両国のいさかいが絶えなかった。ヘンリ2世はヘンリ1世時代の官僚組織を復活・強化し,とくに王の裁判権の拡張に成功した。

リチャード1世(在位1189〜99)】彼は10年間の在位中,本国にいたのはわずか6カ月にすぎず,生涯を戦争で送ったため,騎士道の花と称されるが,王としての政治的資質はほとんどなかったという。即位した翌年,早くも第3回十字軍に加わって東方に渡り,イスラームの将サラディンと交戦して,その勇敢な活躍から「獅子心王」と称された。しかし,帰国の途中,神聖ローマ皇帝の捕虜となり,身代金と引きかえに釈放されて帰還した。莫大な軍費と高額の身代金のため,国民は重い負担を強いられ,王への不満をつのらせた。

【ジョン(在位1199〜1216)】リチャード1世の弟ジョンは,兄の子アーサーを排して王位についたが,失政が多かった。まずフランス王フィリップ2世と争って,フランス内のイギリス領をほとんど失い,また,カンタベリ大司教の任免権をめぐって教皇インノケンティウスから破門され,臣従を誓って許されるという失態を演じた。その後フランスにおける旧所領の回復を企て,諸侯らに軍役と代納金を課したことから彼らの反発を買い,1215年彼らの既得権を擁護する特許状に調印せざるをえなかった。これが名高いマグナ=カルタ大憲章)である。しかし,ジョンはこの無効を宣したために内乱となり,その最中に病死した。

【ヘンリ3世(在位1216〜72)】ジョンが急死したため9歳にして王となり,1227年ごろから親政を始めた。彼も失政が多く,大憲章を無視して国民に重い負担を課したために,貴族らは1258年に反乱をおこし,大憲章を具体化したオクスフォード条項を王に認めさせた。だがヘンリがこれも無視するにいたると,貴族らはシモン=ド=モンフォールを中心に再度立ちあがった。そのさい,モンフォールは貴族に州・都市の代表を加えた会議を開き,それがイギリス身分制議会の礎となったことはよく知られる。

【エドワード1世(在位1272〜1307)】彼はヘンリ2世が根底を固めたイギリス法制を完成した王であり,「イギリスのユスティニアヌス」と称される。イギリスの国家制度が明確な形をとり,政治制度の根幹をなしたのはこの時代であった。とくに彼の名を高めたのは,1295年に「模範議会」を開いたことである。それは貴族・聖職者の代表のほかに,各州から二人の騎士,各都市から二人の市民の代表とから構成されたもので,その後の議会の模範となった。

エドワード3世(在位1327〜77)】フランスとの百年戦争をひきおこした王であり,エドワード黒太子とともに大陸に渡って数々の勝利をおさめた。また,彼は国内における色織物工業の育成にも尽力した。

リチャード2世(在位1377〜99)】即位してまもなくワット=タイラーの乱にあい,その鎮定後は専制をしいた。しかし,ランカスター家のヘンリに反抗されて捕えられ,退位の憂き目にあい,ここにプランタジネット朝は滅んで,ランカスター朝の時代を迎えることになった。