●フランス領インドシナ フランスりょうインドシナ
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コーチシナ植民地・トンキン保護領・アンナン・カンボジア・ラオス3保護国からなる連邦制のフランスの植民地連合で,1887年から1945年までつづいた。このうち,ラオス保護国は,連邦成立後1899年に加わったもので,このほか,1900年には中国からの租借地広州湾が,また1907年には,シャムから奪取されたバッタンバン・シェムリアップ・シソポンの3州がその管轄区域に加えられた。しかし,広州湾およびシャム3州は,厳密な意味では,仏領インドシナ連邦を構成するものではない。仏領インドシナ連邦は,従来フランス外務省の所管に属したアンナン・トンキンの植民省への移管にともなう行政措置として1887年に創設されたもので,これにより,両保護国はコーチシナ・カンボジア(従来より植民省の所管)とともに,植民省の管轄を受けるインドシナ総督の支配下に置かれた。【成立経過】フランスのインドシナ攻略は,19世紀中葉のアンナン朝廷のキリスト教宣教師の弾圧・迫害に端を発する。1847年,ツーランでの布教を要求するフランス海軍と朝廷軍との砲戦を機に,ヴェトナムは態度を硬化させ,宣教師を次々に逮捕処刑した。対外的国威発揚を求めていたときのナポレオン3世は,これを口実として,スペインと連合して遠征艦隊を派遣,ツーラン・フエを攻略,さらに南下して1859年サイゴンを占領した。この事件は,1862年6月のサイゴン条約で解決したが,その結果フランスは,コーチシナの東部3省(ザディン・ビエンホア・ディンツォン),サイゴン・ビエンホア・ミトの各都市およびコンダオ島の割譲を受けた。さらに,1867年6月,フランスは,アンザン(チャオドック)・ヴィンロン・ハティエンのコーチシナ西部3省に突然出兵,省都を占領し,この3省のフランス領への併合を宣言した。ここに仏領コーチシナ植民地が成立した。この間,フランスは,シャムとヴェトナムとの圧迫を受けつつあったカンボジアにも干渉して1863年8月これを保護国とした。フランスのカンボジア攻略の意図は,コーチシナの後背地を押さえることによってその支配を補強することにあった。ただし,カンボジアの行政権力が実際にフランス人官吏の手にわたされたのは,1884年のことである。
かくて,メコンデルタに足場を得たフランスは,中国進出の基地を求めて以後漸次北部ヴェトナムへ攻略の手を伸ばしていった。トンキン攻略の発端は,仏人貿易商ジャン=デュピュイによって開かれた。1873年フランスは,デュピュイの紅河航行をヴェトナム政府が拒絶したことに抗議して,海軍大尉フランシス=ガルニエに命じてトンキンを攻撃させた。この事件は,1874年条約により一応の結着をみたが,この条約は,アンナン王の支配地に対するフランスの保護権を曖昧に認めたものであった。しかし,ヴェトナム側はこの条約を履行しなかったのみならず,中国と結んでフランス勢力の駆逐を試み,さらにそれまでフランスの築きかけた経済的権益をもほとんど停止しようとした。ために,フランスは,紅河デルタの匪賊の鎮圧を理由に,1882年海軍大佐アンリ=リヴィエール指揮下の3箇中隊をトンキンに派遣した。リヴィエールはハノイ城を攻略したが,つづく戦闘で戦死した。しかし,当時積極的な植民地拡張政策に転じていたフランスは,直ちにブーエ大将指揮下の陸兵とクールベ提督ひきいる艦隊を送り,フエ・トンキンを攻撃し,トンキンデルタの主要地を陥落させた。この結果,1884年6月フエ条約(パトノートル条約)が結ばれ,アンナン・トンキンにおけるフランスの保護権が確立した。条約は,アンナン・トンキンにフランス人理事官を置き,アンナンでは各省の行政はその管理下でアンナン官吏がひきつづき行い,トンキンでは理事官が直接各省行政にあたることを定めた。しかし,フランス-アンナン関係の最終結着は,アンナン宗主権を主張する中国との戦いを要した。1885年6月,戦いに勝利したフランスは中国とのあいだに天津条約を結び,中国に宗主権を放棄せしめ,アンナン・トンキンがフランスの保護領であることを最終的に認めさせた。かくして,1887年,コーチシナ・カンボジア・アンナン・トンキンの4地域を合わせて最初の連邦組織を樹立した。仏領インドシナ連邦の誕生である。
ラオスの連邦編入は,それより遅れている。当時ラオスは,多くの部族国家に分かれており,統一国家を形成していなかった。しかも,その大部分が,シャム=バンコック王朝の支配下にあった。アンナン王朝の北部ラオスへの宗主権を口実にラオスへの介入を始めたフランスは,1893年10月武力をもってバンコクを威嚇し,フランス-シャム条約を締結せしめ,ラオスに対する保護権を獲得した。ラオスが,仏領インドシナ連邦に編入されたのは,1899年4月のことである。
【統治政策および機構】インドシナにおけるフランスの統治政策は,1887年の連邦結成の前後において,当初の同化主義より協同主義への移行がみられるが,仏領インドシナ連邦発展の確固たる基礎を築いたポール=ドゥーメ総督の政策は,協同主義を基調とするものではなく,同化主義的中央集権主義に立脚していた。ドゥーメの主要な改革は,各地方中央行政機構の上に連邦中央行政機構を設置し,独立の予算を設けたことである。連邦加盟諸国間の国境は廃され,連邦全体を管轄する部局が創設された。この改革によって,仏領インドシナ行政の統一が初めて実現し,総督府はインドシナ連邦全体を統轄・支配できるようになった。しかし,ドゥーメの同化・中央集権主義では,相異なる地方的事情が深く考慮されなかったため,以後現地人の反発・反抗の動きが拡がっていった。
かかる現地人の反抗を鎮めるために,協同政策を強力に推進したのは,1911年総督に就任したアルベール=サローである。サローは,協同主義の原理を確立した植民地政策学者ド=ラネッサンを範として,総督府各部局を分権主義に則って整理し,現地人を行政機構に組み入れ,フランス人官吏には現地語の習得を命じた。とくに意を注いだ現地人政策では,公共事業・教育および医療施設などの普及に尽し,現地人の俸給を引き上げた。サローは,公式演説のなかで,ヴェトナムに独立を段階的に付与するとの声明さえ行っている。サロー以後の総督の多くも,地方的伝統とインドシナ人の感情を尊重する協同政策を唱道せざるをえなかったが,その背景には,インドシナにおける民族主義の胎動があったことを無視することはできない。
仏領インドシナの統治機構は,連邦中央行政機関・連邦各国中央行政機関・連邦各国地方行政機関に分かれていたが,連邦中央行政機関は,統治の最高機関である総督を頂点として,総督府総務長官・総督府各部局・総督府会議および同常置委員会・経済財政最高会議・国防会議・防務委員会をもって構成されていた。また,連邦各国の中央行政機関は,各国行政長官・長官直属各局課・コーチシナ参事会および各保護国会議・コーチシナ植民地会議・経済財政会議・人民代表議会・現地人諮問会議をもって構成されており,この各国中央行政の下に,州行政および現地人による府県・郡村行政があった。
【インドシナの独立】第二次大戦中のインドシナは,フランスの行政機能を保持しつつも,日本の強い影響下におかれた。1940年9月,ときのドクゥー総督は,日本軍の北部仏印進駐を認める条約に調印した。以後,インドシナは,東南アジアにおける日本軍の軍事作戦の最も重要な拠点となった。フランスのヴィシー政府により任命された総督府は,日本軍との協力関係をつづけたが,終戦が近づきつつあった1945年3月9日,日本軍は突如全国で攻撃を開始した。フランス軍の武装解除が行われた後,バオダイ帝はヴェトナムの独立を宣言したが,実際上の権力はすべて依然として,日本軍の手中にあった。この3月9日事件の報に,当時中国南部で活動していたホー=チミン率いるヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)は,時機到来と判断し,日本軍の黙認下に活動を開始した。1945年8月,日本が降伏するやただちに,ヴェトミンは,全国で一斉に蜂起し,さしたる抵抗もないままに,権力奪取に成功した。内戦回避のためバオダイ帝は退位し,8月25日,ハノイのホー=チミン政府がそれに替わった。8月29日,ホー=チミンは,ヴェトナムの独立とヴェトナム民主共和国の樹立を宣言した。翌1946年3月,ホー=チミンは,ヴェトナム民主共和国初代大統領に選出され,フランスとのあいだに「3月6日協定」を締結,同国をフランス連合内の一部を構成する自由国家として承認させた。これにより,ほぼ60年にわたる仏領インドシナ連邦は一応の終焉をみたのである。しかし,フランスは,同年秋には,この協定を踏みにじって大軍を派遣し,ヴェトナムの再攻略に乗り出した。これに対し,ヴェトナム側は,武装ゲリラ抵抗闘争に訴え,ここに以後30年にもおよぶインドシナ戦争の幕は切っておとされたのである。