50音順    検 索

●フランス人民戦線 フランスじんみんせんせん

ヨーロッパ フランス共和国 AD1930 フランス共和国第三共和政

 1930年代,ファシズム(ナチ)政権の成立とファシズム的勢力の台頭を前に,議会制民主主義(共和政)擁護を目標として35年6月にフランスで結成された広範な統一戦線。このフランスでの経験を踏まえて,1935年8月,コミンテルン第7回大会が「反ファシズム人民戦線」を定式化したことにより,各国においてその実行が試みられたが,スペインで人民戦線内閣(アサーニャ内閣)が1936年2月に成立した以外,大きな運動は形成されなかった。日本では1937〜38年に「人民戦線事件」が生じている。

【フランス人民戦線】世界恐慌の波及の中で,政権党たる急進社会党は準与党のフランス社会党との関係で有効な対策を打ち出しえず,また急進社会党員の連座したスタヴィスキー事件が露呈するにおよんで,不安定・弱体な政府および議会制に対する不信・攻撃が高まった。1934年2月6日の「火の十字団(クロワ=ド=フー)」など極右団体による騒擾(2月6日事件)はその頂点をなす。極右によるこの事件は,しかしフランス共産党・社会党などにとっては過剰反応的にファシズムの脅威と受けとられた。ドイツにおいてヒトラー政権の成立を許したのは,ドイツ共産党・社会民主党の不和・対立である,とする判断も手伝って,フランス共産党と社会党との接近が徐々に始まった。1935年7月の人民戦線(正式名称は人民連合)結成にいたる過程での結節点として,従来の「階級対階級」戦術からの方向転換を決定した1934年5,6月の共産党イヴリー全国協議会,1935年5月のスターリン・ラヴァル共同コミュニケによるフランスの国防努力の承認,これによって急進社会党と社・共両党との提携の促進(急進社会党は1935年10月の党大会で決定的に合流)を挙げることができる。こうして,1934年7月の社・共統一行動協定(統一戦線)は,労働者階級だけでなく中産階級をも引き込んだ人民戦線へと拡大していった。1935年の革命記念日(7月14日)の示威運動には48の団体が参加した。つづいて,翌1936年4,5月の総選挙に向けた共同綱領が1936年1月に完成した。「パンと平和と自由」を合言葉とするこの綱領の基本的性格は,諸党派・組織をつなぎとめるための最大公約数的なものであり,決して民主主義擁護の枠を出るものではなかった。

【フランス人民戦線政府】総選挙の結果,社会党を第1党に人民戦線派が勝利した。ただし,前回と比較した際の得票率の増加は小さく,「共和主義的規律」にもとづく立候補者調整(取り下げ)によるところ大であった。6月,社会党のブルムを首班とする内閣が急進社会党の入閣を得て成立する(共産党は閣外協力)。議会レヴェルとは別に,選挙勝利に刺激されつつ,労働運動が工場占拠という形態,労働者の祝祭という性格をともなって爆発。この直接民主主義の噴出の中で労・政・資間の「マティニョン協定」が結ばれ,ブルム内閣も矢継ぎ早に週40時間労働法・年間有給休暇(ヴァカンス)法などを議会通過させえた。こうしてストライキ運動の波は鎮静化する。しかし,1936年7月以後のスペイン内乱への不干渉政策をめぐって閣内に不一致が生じ,また,資本の側からの反撃がつよまるにつれ,ブルム内閣は苦境に立たされる。共同綱領中の政治的要求はある程度実現された(ファシスト団体の解散)ものの,購買力理論にもとづく対恐慌政策は,金本位制離脱(事実上のフランス平価切下げ)などにもかかわらず,十分な効果を上げえない。1937年2月には「フランス版ニュー=ディール」とも呼ばれる改革の「休止」に追い込まれ,6月にはいって急進社会党右派の強い上院が,ブルムの財政上の全権要求を拒否したことによって辞職に追いこまれた。その後,第三次・第四次ショータン内閣,第二次ブルム内閣が,やや右寄りの形で組閣されるが,人民戦線政府とはいいがたく,1938年4月のダラディエ内閣とその下でのミュンヘン協定をめぐる対立によって人民戦線は解体にいたった。