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●フランス社会党 フランスしゃかいとう

ヨーロッパ フランス共和国 AD 

 1971年6月のエピネー統一大会においてミッテランを第一書記として結成されたフランスの社会主義政党。前身は労働者インターナショナル(第2インター)フランス支部 SFIO の正称をもつ,1905年結成のいわゆる統一社会党。第2インターの決定に従い,ゲード率いるフランス国社会党とジョーレス率いるフランス社会党が合同して SFIO が誕生した。1908年には〈労働者階級と社会革命の党〉として〈プロレタリア解放のための政治権力の獲得〉をめざす,との基本路線を採択。1905年のタンジール事件など戦争の危機を前に反戦主義を掲げるが,アミアン憲章を採択した(1906)労働総同盟との提携は実現困難であった。第一次世界大戦開戦とともに社会党議員全員が軍事予算に賛成し,ゲードらが入閣して挙国一致の神聖同盟に参加。1915年以後,反戦派が登場し,共産主義インターナショナル(コミンテルン)結成につながるツィンマーヴァルト会議(1915)・キーンタール会議(1916)にも出席するが,SFIO としては1917年9月にいたるまで神聖同盟に残る。1920年末の分裂後,少数派は SFIO の名称を維持して再出発。1924年総選挙では急進社会党との左翼カルテルが勝利するが,閣外協力にとどまる。また1934年2月の極右団体による騒擾事件を機に,社・共両党の統一戦線が同年7月に成立,さらに中産階級を基盤とする急進社会党をも含めた人民戦線が結成された(1935年6月)。1936年総選挙で人民戦線派が圧勝,同年6月にブルム内閣が成立する。しかし工場占拠・ストライキの高揚をうんだ労働者のエネルギーの鎮静化,資本の国外流出,急進社会党右派の抵抗強化のなかでブルムは1年で首相辞任。ショータン内閣・第2次ブルム内閣をへ,1938年4月のダラディエ内閣をもって人民戦線は崩壊してしまった。

 第二次世界大戦勃発後の1940年7月10日,国民議会によるペタンへの全権付与に反対したのは,社会党議員175人中わずか35人。しかしすでに分散的ながらレジスタンスを開始し,北部解放・南部社会党行動委員会などの活動によって影響力を拡大し,1943年5月結成の全国抵抗評議会でも大きな位置を占めるにいたった。解放後,1945年10月の総選挙では第2党,1946年6,11月総選挙では第3党となり,共産党・人民共和派とともに3党政治を推進し,ブルム・ラマディエら首相を供給した。冷戦の進行とともに反共産党姿勢を強め,また影響力も低下していった。1956年1月〜1957年5月の党書記長モレを首班とする内閣は,アルジェリア民族解放闘争抑圧・スエズ出兵などの汚点を残した。アルジェリア問題そしてド=ゴールの第5共和国憲法への対応をめぐって党は分裂,ドプルー・サヴァリらは独立社会党を結成,この党にマルチネらを加えて1960年4月に統一社会党(PSU)が発足する。1965年9月に社会党・共和制度会議(ミッテランの率いる小政党)・急進社会党は民主社会主義左翼連合(FGDS)を結成した。しかし1968年の「5月危機」直後の総選挙で FGDS を含めた左翼の敗北,ド=ゴール退陣後の大統領選挙第1回投票での社会党の惨敗を背景に,社会主義勢力の再編が始まる。社会党は1969年に名称を SFIO から Parti socialiste に変更する。1971年のエピネー大会において,この新社会党に共和制度会議その他が加わって現在の社会党 PS が結成される。共産党との対話を深め,自主管理路線を強めていく。1972年6月には社・共共同政府綱領によって左翼連合が成立。1974年に社会主義全国会議を共催した統一社会党・フランス民主労働同盟からの入党をも得てPSの基盤は拡大する。1981年大統領選挙ではミッテランが当選,総選挙でもPSが単独過半数を占めた。ミッテラン政権は誕生直後から国有化などの経済政策を通して共産主義でも社会民主主義でもない「フランス社会主義」をめざすが,失業・インフレーション・対外収支赤字悪化の状況のなかで,共産党との対立の深まり,保守派の巻き返しを招いている。

 現在の主たる支持基盤は青年・公務員(とりわけ教員)であり,労働者政党のイメージから離れている。

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