●フランス革命 フランスかくめい
ヨーロッパ フランス共和国 AD1787 フランス王国
1787年2月の名士会の召集を開始点とし,“ブリュメール18日のクーデタ”(1799年11月9日)によるナポレオンの軍事的独栽への移行を終結点とするブルジョワ革命(市民革命)。フランス革命は,封建制を廃棄することによって,近代のブルジョワ社会ないしは資本主義社会形成における画期をなした。またそれは,伝統的な地方の自律性・独立主義と地方の特権を払拭することによってアンシャン=レジームの国家的枠組を破壊し,近代のブルジョワジーの要求とその利害に合致する国家の樹立を可能とした。【フランス革命の見方】フランス革命史研究における現在の見方を基礎づけたのは,G.ルフェーヴルであった。彼が出現するまで,フランス革命は長いあいだ“上から”,つまり革命議会や政府の諸委員会あるいは主要な革命指導者の観点を通してみられてきた。このため,都市・農村の民衆の革命行動は,本質的に,封建制やアリストクラシーに対してむけられたブルジョワジーの運動の反映として考えられ,革命における第三身分の均質的側面が強調されてきた。第三身分の内部に複数の階級の存在を認め,ジロンド派と山岳派の対立の背後に所有権をめぐる階級対立を認めた A.マティエも,議会内の党派のプログラムなどからその階級的基礎を推定しようとする“上から”の視角にとどまったため,山岳派(とくにロベスピエール)の政策と民衆の利害とを同一視する見解に陥った。これに対してルフェーヴルは,パリから目を転じて地方の農民層の研究に没頭し,アンシャン=レジーム末期の農村構造の精緻な社会分析から出発して,起源(農村経済の危機・領主の搾取)・進行過程(バスティーユ牢獄襲撃に先だって農民の運動は存在し,さらに,以後に展開する“大恐怖”や農民騒擾も革命の政治的プロセスとは必ずしも一致しない)・傾向(反封建的かつ反資本主義的)・結果(封建制の全面的廃棄)において自律的な“農民の革命”の存在を証明した。さらに,このルフェーヴルの研究に刺激を受けた A.ソブール・G.リューデ・R.コップらが,これまた“ブルジョワの革命”とは異質で自律的な“都市民衆の革命”の存在を明らかにしたのである。こうしてルフェーヴルによって提出された“下から”の見地が,今日のフランス革命史家の共有財産となった。だがこれは,ただ単に,従来指摘されてきた“アリストクラシーの革命”も“ブルジョワジーの革命”に“都市民衆の革命”や“農民の革命”を付け加えることを意味するものではなかった。それは同時に,フランス革命全般の解釈に大きな転換をもたらすことになったのである。すなわち,フランス革命は,“アリストクラシーの革命・ブルジョワジーの革命・都市民衆の革命・農民の革命”という四つの革命の複合的産物ととらえられ,そのプロセスは,これら四つの革命の関連の仕方の変化として説明されることになったのである。その場合特徴的なことは,第三身分が,議会を中心として活動する“ブルジョワジー”と大衆運動に結集する都市・農村の民衆という二つの政治勢力に分けられ,議会内部の党派の交替は,議会と民衆運動との関係によって生じた“ブルジョワジー”内部の交替として説明されたことである。ロベスピエール派の権力掌握と没落も,民衆運動との結合と乖離によって説明された。
もちろん,今日のフランス革命史研究のすべてがルフェーヴルの提出した見地によっておおわれるわけではない。主要なものだけをとりあげてみても,[1]人口や経済の動きを統計的処理を駆使して検証し,それが各社会層に及ぼした影響のなかに革命的情況の条件をみる見方,[2]フランス革命を18世紀後半の西欧世界をおそった“大西洋革命”あるいは“西欧革命”の一環としてとらえようとする見方,[3]政治史と経済史の中間領域を検討する“社会史”の側から提出されたブルジョワ革命否定論,および,“文化”や“心性”を軸にフランス革命をとらえなおそうとする試み,などがある。とりわけ[3]は現在進行中であり,その成果が注目される。
【革命前夜のフランス社会】革命期に四つの革命を担う社会層のあり方に焦点をあてれば以下のとおり。[1]特権身分層。僧族と貴族の2身分からなるが,その内部は均質ではない。第一身分の僧族は,免税特権と十分の一税徴集権をもつ特権身分であったが,18世紀末には,その内部に貴族対第三身分の対立関係が導入されていた。司教などの高位聖職者は貴族に独占されていたが,司祭などの下位聖職者はほぼ平民であった。第二身分の貴族には,中世以来の伝統的な旧貴族と近世以来“売官制”を通じてブルジョワから上昇した新貴族とがあった。これらの貴族は,旧制度に固執する保守的貴族とブルジョワ層に経済的活動の面で接近しつつあった自由主義貴族とに分かれていたが,その国制上の発言権を抑える啓蒙専制主義に対しては,モンテスキューの制限王制論に依拠して一致して抵抗した。[2]ブルジョワ層。その最上層には,貴族所領を購入した地主ブルジョワ・官職保有ブルジョワ・金融ブルジョワ,これに次いで,“商人=製造業者”・“親方=商人”と呼ばれる商工業ブルジョワ(当時の工業の実態は問屋制が支配的で,工業は商業と未分離であった),富裕な借地農業企業家などの中流ブルジョワ,そして最下層には,都市の手工業親方や農村の中農などの小ブルジョワ(その多くは都市か農村の民衆層と区別しがたくなっていた)がおり,複雑な構成をもっていた。これらのブルジョワ層は,ア=プリオリに革命的階級を構成していたのではなく,その上層部ほど既存の支配秩序体制(絶対王制)と癒着する傾向をもっていた。また,公的な政治的発言の場をもたなかったため,独自な政治勢力を構成しがたかった。それゆえ,ブルジョワ層が革命勢力として革命という舞台の前面にでるためには,三部会の召集という政治的契機を必要とした。[3]都市と農村の民衆層。都市の民衆は“サンキュロット”と呼ばれ,小親方・小店主・職人・初期プロレタリアートなどからなる。革命期の物価騰貴は,職人だけでなく,親方層や小店主をも消費者の位置に置き,多様な階層を含む“サンキュロット”大衆を形成した。彼らは平等主義を理念として“もてる者”に反発し,特権貴族とブルジョワの双方の利害と対立した。農村の民衆も,都市民衆と同様の立場にあった。彼らも,領主制に反対すると同時に,生活維持に必要な共同体的慣行を侵害し,耕地を独占する資本主義的大農経営にも抵抗した。このように,都市と農村の民衆は,ともに反封建的反資本主義的な傾向を有していた。
【王権の麻痺と革命的情況の発生】フランス革命の発端をしるしたのは,“アリストクラシーの革命”であった。革命の発生が,絶対王政に対する特権身分の反抗という形をとったのは,彼らのみが,アンシャン=レジームを通じて,高等法院のような王権への抵抗の手段をもちつづけてきたことによる。アメリカ独立戦争への参加によって悪化した財政危機を背景として,財務総監カロンヌが旧来の政治・社会構造の変革をも含む税制改革案を携えて1787年2月に“名士会”を召集したのを機に,特権身分の反抗は急速に激化した。名士たちは,まずカロンヌを罷免させ,後任者ブリエンヌの提案をも執拗に拒否して,1788年夏には,翌年5月に全国三部会を開催するとの約束を得た。こうして,アンシャン=レジーム下で諸社会集団を統合していた絶対王政が統合力を失い,いわば権力の空白という事態が現出する。そして,この事態を前に諸階層の利害が露呈され,空白となった権力の空間をめぐって権力奪取のための闘争が展開することになるのである。この過程でとりわけ重要なのは,1788年9月にパリ高等法院が来たるべき全国三部会を1614年の旧方式で開くべしという意見表明を行ったのを機に,“ブルジョワジー”が貴族身分への統合を志向することを拒否し,国民主権論にもとづく代表として政治権力を直接に掌握する選択をしたことである。ここに,いわば政治上のアンシャン=レジームが終結したのであった。以上のような政治的危機に加えて,予期しない経済的危機が緊張を高めた。1788年の凶作は,食糧価格の高騰をもたらし(都市では1789年7月中旬が最高値),これが都市と農村の消費者大衆を直撃して,全国的に民衆運動(“都市民衆の革命・農民の革命”)を発生させることになったからである。さらに,以上のような政治的・経済的危機に照応して,とくに民衆層を中心として“革命的心性”が醸成されはじめていた。1788年の凶作による経済危機は,アリストクラシーによる“飢饉の陰謀”という観念を生みだしており,これが民衆運動頻発の下地をなしていたが,全国三部会開催の約束というニュースは,民衆層のあいだに漠とした生活改善の希望と,それを防害する“アリストクラートの陰謀”という観念を確かなものとした。全国三部会が開催されたのは,このような情況においてであった。
【1789年:革命における諸勢力の基本的配置】全国三部会は,その冒頭から裁決方式をめぐる特権者層と第三身分の議員との対立によって紛糾したが,第三身分の議員は一部の開明的な貴族・僧族議員の同調を得て,全国三部会を憲法制定国民議会に切りかえることに成功した(7月9日)。しかし,これを不本意とする宮廷は,軍隊を集結させて議会を否認しようとしていた。この議会の危機を救ったのが,7月14日のバスティーユ牢獄襲撃である。ただし,パリの民衆運動は議会の救出を目的としたものではなく,あくまで自己の生活を脅かすもの(食糧危機とその背後に想定されたアリストクラートの陰謀)に対する自衛行動であった。他方,パリのブルジョワは,宮廷からの軍事的脅威と民衆運動による無秩序状態に対処するため,彼らによる民兵組織を設け,市政革命を達成した。こうしてパリのブルジョワと民衆は宮廷を譲歩せしめた。
農村では,1787年末から食糧危機のため各地で一揆が発生していたが,パリ蜂起の影響で“大恐怖”と呼ばれる全国的規模の農村騒擾がおこった。これは,アリストクラートの陰謀によってさしむけられたと考えられた“野盗”に対する農民の自衛的行動が高じたものであり,領主館が焼きうちされ貴族領主が攻撃されたにとどまらず,役人やブルジョワ地主らも攻撃対象とされた。この情勢を利用して,ブルジョワおよび自由主義貴族は,領主権の中心たる封建地代については有償廃止の方式を採用したものの,旧体制の基礎である領主制を清算する8月4日夜の封建制廃止の決議を行った。これは,8月下旬にだされた“人権宣言”とともに,絶対王制の基礎である領主制を否定し,ブルジョワ社会の原則を打ちだした点で画期をなした。ここに,いわば社会面でのアンシャン=レジームが終結したのである。しかし,国王ルイ16世はこれらの決議・宣言を批准しようとせず,9月下旬には再びフランドルの軍隊を集結するという挙に出た。この危機を打開したのが,10月5〜6日の“ヴェルサイユ行進”であった。これも,食糧危機への対策を国王に直訴しようとしたパリ民衆の行動であったが,議会はこれを利用して批准を獲得し,宮廷と議会をパリに移した。
以上のように,1789年5月の三部会開催から10月のヴェルサイユ行進までのあいだに,フランス革命の基本的な勢力配置は定着した。すなわち,妥協を拒否する宮廷反革命派,政治的・経済的危機のなかで政治的状況に“介入”する都市と農村の民衆運動,そして,新社会の理想をかかげつつ,民衆運動の“介入”を利用して議会内で反革命派を制圧する議会ブルジョワ。1794年夏(テルミドール)までの革命のプロセスは,これらの社会勢力の相互関係によって説明されうる。
【立憲君主制の成立と崩壊】1789年秋以降,憲法制定国民議会は新生フランスを基礎づける一連の政策を採用した。行政区画の再編(旧来の州を廃して全国を83の県に分割),地方行政官僚や判事などの公選原則の確立,教会財産の没収・国有化(1789年11月)とそれを担保としたアッシニア紙幣の発行(1789年12月),“聖職者に関する民事基本法”の制定(1790年7月)による教会の国家への従属化と戸籍の世俗化,“ル=シャプリエ法”(1791年6月)などによる旧来の共同体的・ギルド的規制の一掃,直接税中心の租税体系の確立,そして,フランス最初の成文法である1791年憲法の制定。1791年憲法は政治体制として立憲君主制を定めたものであり,国王はもはや執行権しかもたず,立法権は一院制の議会に属した。しかし,この憲法は同時に,財産資格による選挙権の制限条項を含んでおり,そこに,この段階の体制(1791年体制)の有産者寡頭支配的性格をみてとることができる。
1791年体制は,しかし結局,貴族・国王側の抵抗とそれに対抗する民衆運動の激突のため崩壊する。聖職者に関する民事基本法は多くの聖職者によって拒絶され,それが一因で,とりわけフランス西部(ヴァンデ)では騒擾が生じており,また,1791年初頭以来数多くの貴族の亡命がつづいていた。こうした情況のなかで生じた国王一家のヴァレンヌ(逃亡)事件(1791年6月)は,国民の国王に対する信頼を失わしめ,アリストクラートの陰謀の観念にヨーロッパ的規模を与えることによって,共和主義運動を高揚させた。バルナーヴらを中心とする議会多数派の“国王の誘拐”という虚構にもとづく事態収拾の試みにもかかわらず,コルドリエ=クラブが1791年7月17日,シャン=ド=マルス広場で国王廃位のための大衆的請願運動を敢行したのである。これは武力をもって鎮圧されたが,これを機に,ジャコバン=クラブが分裂して,その保守派が新たにフィヤン=クラブを結成した。
1791年9月に憲法制定議会は解散され,新議員のみからなる立法議会が開会された。ここでは,フィヤン派が右派を,ジャコバン=クラブを再建したジロンド派が左派を形成した。1792年に入ると,食糧危機による民衆運動が各地で頻発し,亡命貴族が軍隊を国境に集結させる動きをみせていた。こうした情況のもと,ジロンド派は民衆の革命的情熱を国外にそらし諸国民を解放しようとする意図から,宮廷派は外国の干渉を望む思惑からそれぞれ戦争に期待し,1792年4月,フランスは対オーストリア戦争に突入した。しかし,緒戦における軍事的敗北は春以来の食糧危機とあいまってサンキュロット運動を高揚させ,1792年8月10日,地方の連盟兵の支援を受けたパリ民衆がテュイルリー宮殿を襲撃し,王制は事実上停止した。
【共和制の展開と山岳派独裁】1792年9月20日に発足した国民公会は,ただちに王制の廃止・共和制の樹立を宣言した。国民公会では,過半数を占める中間派の平原派をはさんで,右にジロンド派,左に山岳派(モンタニャール)が対峙した。この両派は,いずれもブルジョワ出身の共和主義者で所有権自体は否定せず,両派の差異は,議会外の民衆運動に対処する仕方に求められる。すなわち,ジロンド派は,あくまで経済的自由主義に固執して民衆運動の要求する経済統制に応じようとしなかったのに対し,山岳派は,基本的にはブルジョワ的立場を維持しながらも,革命遂行のため民衆運動との結合を不可欠とみなし,民衆の要求する所有制限や経済統制をある程度認めようとしたのである。そして,1792年秋よりジロンド派を一掃してロベスピエールを中心に再組織されたジャコバン=クラブは,山岳派と民衆運動を媒介する役目を果たし,山岳派の勢力伸長の支柱となった。
公会では当初ジロンド派が優勢であったが,国王の裁判と処刑(1793年1月)の過程で山岳派が優位に立ち,同年春の内外の危機がジロンド派の没落をもたらした。まず国外では,前年8月のヴァルミーの戦勝以後のフランス軍の攻勢と国王ルイの処刑を契機として第一回対仏大同盟が結成され,軍事的危機をもたらした。国内では,相変わらずの経済危機に由来する民衆騒擾に加えて,1793年3月からは,西部のヴァンデ県を中心として蜂起が発生していた。こうした危機に直面してジロンド派は何ら有効な処置をとりえなかった。5月31日,6月2日のパリ民衆の蜂起は,議会からジロンド派議員を追放し,山岳派の権力掌握を導いた。
この政変後,山岳派公会は民衆の要望に答えて,普通選挙を含む民主的な1793年憲法(6月24日)をはじめ,亡命者土地財産のやや民主的な売却方式(6月3日),領主権の完全無償廃止(7月17日)を採択する。しかし内外の危機を前にして,1793年憲法の実施は延期されることになり,ここに憲法によらない変則的な非常政治体制である“革命政府”が成立した。この政治体制は,立法府のなかの各種委員会が強力な行政機能を果たした点に特徴があった。とくに1793年4月に設置され,1793年夏の改組によりロベスピエールが加わった公安委員会は,軍事・外交・内政全般に強力な権限をもち,保安警察の任にあたる保安委員会や革命裁判所(1793年3月創設)とともに強権をふるった。内外の敵から革命を防衛するために,8月には国民総動員令を出し,軍隊や諸県に公会議員を派遣するとともに,9月上旬のパリの食糧騒擾を契機に,経済統制をしき,反革命容疑者法を可決して“恐怖政治”を日程にのせた。さらに,政治権力の変革に見合った意識変革をめざして革命暦(10月5日)が採用され,理性の祭典(11月10日)が開催される一方,公教育論議が活発になされた。こうして,内外の危機に対して国民の物質的・精神的力を総動員した革命政府は,1793年末までに,トゥーロンをイギリスから奪回しただけでなく,リヨンの蜂起を壊滅させ,“ヴァンデ”の農民反乱をおおむね鎮圧することにも成功した。
【ロベスピエール派とその没落】山岳派,とりわけロベスピエール派は,ジャック=ルーやヴァルレらの“過激派”およびエベールによって指導された議会外のサンキュロット運動の圧力を背景に議会内での地位を高め,ついには権力を掌握した。ところがロベスピエールは,1793年9月に“過激派”を粛清したのみでなく,1794年春には,反革命容疑者の財産を没収して貧民に分け与えんとするヴァントーズ法を提示したのち,山岳派右派のダントン派とともに,サンキュロット運動に影響力をもつエベール派を粛清したのである。さらに1794年6月には,アドミラとセシル=ルノーによるロベスピエールとコロ=デルボワに対する殺害未遂事件を契機として“アリストクラートの陰謀”の観念が再燃した結果,“陰謀者”を“恐怖”によって圧するプレリアル法が可決され,民衆層をも粛清する“大恐怖政治”が開始された。この大恐怖政治は,“美徳”を発展させることによって,陰謀者の策謀にも動ずることのないように“人民”を再生することをめざした最高存在の祭典(6月4日)と対をなす政策であった。
だがこのとき,ロベスピエール派の没落は近づいていた。というのも,革命政府内におけるロベスピエール派は少数派であり,革命政府体制とは,このロベスピエール派を戦争遂行のために積極的に支持して前面にたてた山岳派,および山岳派の方針を革命擁護のための一時的な必要悪とみなした平原派の二重のプラグマティズムの上に立脚していたからである。したがって,1794年夏,革命政府による臨戦体制の成果があがって戦局の危機が決定的に遠のいたとき,なおも恐怖政治を続行しようとしたロベスピエール派は公会多数派の反撃を受けることになる。しかもこのとき,革命政府の強力な政治指導のために運動の組織を解体され,活動分子を失った民衆運動も,公会内で孤立したロベスピエール派に積極的な支持を与えることがなかった。かくして,テルミドール9日,国民公会においてクーデタ(テルミドール反動)が成功し,翌日,ロベスピエールは断頭台(ギロチン)上にその生涯を終えたのである。
【革命の終結】テルミドール9日以後ほどなくして,革命政府体制は解体され,ジャコバン=クラブは閉鎖された。価格統制の廃止によるインフレと買占めに苦しむサンキュロットは1795年春,ジェルミナルとフロレアルに〈パンと1793年憲法〉をスローガンとして2度にわたって蜂起したが,いずれも鎮圧された(これ以後1830年までパリの民衆蜂起は存在しない)。1795年8月には新憲法が制定され,普通選挙の廃止・二院制の議会(500人会と元老会),5人の総裁からなる総裁政府が発足して,ここに,革命政府に代わって,ブルジョワジーの寡頭支配体制の安定化の道が追求される。しかし,財政的危機と戦争の継続のため,体制の安定は実現されなかった。1796年5月に発覚した“バブーフの陰謀”事件は,総裁政府の内包する政治的不安定を露呈した。これは,平等主義をすすめて所有の否定にまでいたる共産主義と,指導部を欠いたサンキュロット運動の限界を反省して権力掌握をめざす革命独裁とを特徴とする革命運動であり、ジャコバン主義とサンキュロット主義の結合の所産であった。バブーフの陰謀は未発のうちに鎮圧されたが,19世紀の革命運動に大きな影響を及ぼした。
バブーフの陰謀事件以降,もはや民衆運動に依存せずに革命の成果を擁護しようとするテルミドール派にとって,頼るべき力は軍部以外になかった。こうして軍部の支援下に,総裁政府を脅す左右両勢力に対するクーデタが敢行され,軍部の台頭が進行した。まず,フリュクティドール18日(1797年9月4日)のクーデタによる王党派議員の排除,ついで,フロレアル22日(1798年5月11日)のクーデタによる左派議員の排除。そして最後に,遠征地エジプトから帰国したナポレオンによって断行されたブリュメール18日のクーデタ(1799年11月9日)による総裁政府の倒壊と軍部独裁への移行。かくして,フランス革命は幕をとじたのである。
〔参考文献〕ソブール,小場瀬卓三・渡辺淳訳『フランス革命』上下,1953,岩波新書
ルフェーヴル,高橋幸八郎他訳『1789年−フランス革命序論』1975,岩波書店
リューデ,前川貞次郎他訳『フランス革命と群象』1963,ミネルヴァ書房
柴田三千雄『バブーフの陰謀』1968,岩波書店
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