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●フランス

ヨーロッパ フランス共和国 AD 

【総説】西ヨーロッパの国家。北西は北海・ドーバー海峡,西は大西洋,南はスペイン,南東はイタリア,東はスイス,北東はドイツ・ルクセンブルク・ベルギーにそれぞれ国境を接する。面積は55万1,500平方km。人口は5,265万5,800。首都はパリ。フランスの語源はローマ帝国時代の「フランキア」(フランクの国)に発し,6世紀にはガリアの一部を,ヴェルダン条約(843年)以後はほぼ現在のフランスに相応する領域をさすようになった。国語はフランス語,通貨単位はフラン。宗教ではカトリック教徒が圧倒的に多いが,プロテスタント100万,ユダヤ教徒60万,イスラーム教徒(移民)100万を数える。政体は共和制で,行政権は直接選挙により選ばれた大統領と,彼が任命する首相に率いられる政府によって執行される(現在第五共和制)。国家は本土96県,海外4県(ガドループ・マルティニック・ギアナ・レユニオン)および海外領土(サン=ピエール=エ=ミクロン・ポリネシア・ニュー=カレドニア・ワリス=エ=フュテュナ・コモロ・アファール=エ=イサス)からなる。

 本土の地表の景観は,ヨーロッパの主たる特徴をすべてあわせ持ち,その縮図を示す。フランドルの地から発してパリ盆地の地平にまで広がる広大な北部平原,ヘルシニア期に形成された切立つ山岳部,アルプスから地中海海岸にかけての起伏に富む稜線といった,ヨーロッパ大陸の多様な起伏が「六角形」のフランスのなかに再現されている。気候も多様をきわめ,大陸的風土の夏の猛暑・冬の酷寒,大西洋的風土の湿暖,地中海的風土の冬,春の北・西北の季節風が重なり合っている。

【歴史】フランスの旧石器時代はほかのヨーロッパ地域より早い。アブビル・アシュール・ルバロア・ムスティエ・オーリニャック・ソリュートレ・マドレータなど考古学的編年における諸文化の名称がいずれもフランスの地名であることからうかがえる。最古の現生人類クロマニョン人はオーリニャック期に姿を現した。新石器時代になると,人類は大地を耕やし,野生動物を家畜化し始める。この時代フランスには四つの人種すなわちアルプス人種・クロマニョン・地中海人種・北方人種が知られる。青銅器時代(前2500〜前900年)の文化はクロマニョンを除く3人種がになったとされているが,どれが現在のフランス人となったかは明らかでない。

 ガロ=ローマ時代。前600年ごろ小アジアからやってきたギリシア人がマッサリア(現在のマルセイユ)に植民都市を建設した。ケルト人の来住は前8世紀以前から始まり,ローマ人からガリ(Galli ガリア人)と呼ばれた。鉄製農具を使用した彼らは中世前期まで存続した農地景観の創始者である。前146年カルタゴを征服したのち,ローマは南ガリアを抑えてみずからの経済的・社会的・政治的体制(具体的には道路・植民市・将来のナルボネーズ)への編入に成功し,カエサルが全ガリアの平定・属州化を実現した(前57〜52年)。その後5世紀間ガリアは「ローマの平和」の恩恵に浴し,ガロ=ローマ人は都市化と道路網の拡大という新しい文化を発展させ,言葉もしだいにケルト語からラテン語に移っていった。

 フランク王国。ゲルマン民族のガリアへの侵入が本格化するのは5世紀に入ってからだが,のちのフランス史の母体ともなるフランク族もガリアに移動し,クローヴィスの時代になってフランク=ガリアを統一し,メロヴィング王朝を創始した。彼のキリスト教(アタナシウス派)への改宗はカトリック教会ならびにローマ人有力者の支持を受け,これによって西ヨーロッパにおけるメロヴィング王朝の支配的地位は決定的となった。クローヴィスの死後,王国は4人の息子によって分割され,6世紀後半における王家の争いとも重なってしだいに地方豪族の台頭を招き,そのなかからピピン家が宮宰職を独占し,王国の実権を握るにいたった。

 カロリング朝時代(8〜10世紀)。カロリング家の祖先となったピピン家は,カール=マルテルトゥール=ポワティエの戦い(732年)でスペインのイスラーム教徒を撃退したことにより,豪族勢力の強さを示したが,その子ピピン3世は,751年,フランクの国王としてカロリング朝をたて,彼の後継者シャルルマーニュ(カール大帝)は800年にヨーロッパ北西部を中心に西ローマ帝国を再興した。かくてアルプス以北の西ヨーロッパは,ローマ文化の地中海世界から訣別して北フランス・西ドイツを中心に新しい文化を形成し始めることとなった。843年のヴェルダン条約は帝国を東・西両フランクと中部フランクに三分し,のちのドイツ・フランス・イタリアの3国家の基礎をつくった。このうち西フランクのフランスではフランス語の祖であるロマン語がラテン語から別れ出た。政治的には自律性を備えた領邦国家が誕生してカロリング王朝の分解を招き,公・伯・城主が城を築いて近隣の農民を支配する封建制へと道を譲っていった。

 フランス王権の発展。987年ユーグ=カペーカペー朝を樹立してフランスの国家と社会の基礎となった。カペー家は代々男系の長子相続を順調に運ばせて,王権の世襲制を確立した。初期のカペー朝諸王はパリとその周辺部,オルレアン地方を支配したにすぎなかったが,フィリップ2世は,イギリスのプランタジネット朝諸王の支配下にあったフランス領封地の没収に成功し(ギイエンヌは除く),王国の統一と強化に寄与した。彼は,ドイツの神聖ローマ皇帝に対してみずからをフランスの皇帝(オーギュスト)としてカペー王権の世襲を名実ともに確立し,パリを王国の首都と定めた。彼の後継者たちはアルビジョワ十字軍を組んでラングドック地方を王領地に併合した(1271年)。13世紀になると王国は人口も増加して富裕となり,王権もルイ9世の聖徳に彩どられて国内最大の有力者となり,ヨーロッパを見渡してもカペー王権と並ぶ権力者はいなかった。フィリップ4世はかくて王権と国家利益の支配権を掌中のものとすることができた。

 カペー朝諸国とローマ教会の関係はおおむね良好であり,初期の十字軍の中核はフランスであった。しかしフィリップ4世のとき聖職課税をめぐって時の教皇ボニファティウス8世と激しくわたりあったが,国王は1302年に全国三部会を開いて国内の支持を取りつけ,教皇を捕縛して(アナーニ事件)フランス王権の強化と教皇権の衰退を画した。

 12〜13世紀のフランスは農業的技術革新が普及し,集村が成立した時代であり,都市経済の発達をみた時代でもあった。それぞれの都市では相互扶助と平穏の維持を目的とする平和誓約団体が結成されていたが,北フランスの王領外あるいは王領周辺の都市は,国王から特許状を獲得して都市領主に反抗し,自治都市としてのコミューン体制をとるにいたった。13世紀以後,国王とコミューン諸都市との政治・経済・軍事の結合は強まり,地方領主権の弱化をもたらした。

 しかしながら14〜15世紀は相次ぐ凶作と戦争,黒死病の大流行がもたらした経済的不況によって特徴づけられ,巷では「神よ,われらを戦争と黒死病と飢えから救いたまえ」の叫びがこだました。黒死病の流行は18世紀前半まで断続的につづいた。ギエンヌ問題に端を発する英仏戦争はプランタジネット家のイギリス諸王がフランス(1328年断絶したカペー家に代わって傍系のヴァロワ朝が立つ)王位の継承を請求して,王朝戦争に変貌した。これが百年戦争(1337〜1453)である。一連の敗北,社会的・政治的混乱(黒死病の蔓延,エティエンヌ・マルセルの反乱,ジャックリーの乱など),アルマニャック派ブルゴーニュ派の抗争は王国を奈落の底に投げいれた。1415年アザンクールの戦いでイギリスのヘンリー5世に敗れ,トロワの条約(1420)は彼をフランス王位の継承人として指名した。南のブールジュではフランス王シャルル7世が君臨しており,英・仏両国が並存するという異常事態のなかに突如として現れたのがジャンヌ=ダルクである。彼女の潔しい情熱と固い信仰はオルレアンを解放して(1429),イギリスを王国から駆逐することに成功し,1453年にはカレーのみがイギリスの支配下に置かれることになった。シャルル7世の子ルイ11世は,大封建領邦国家の一つブルゴーニュ公国を征服し(1477),絶対王政への道を切り開いた。

 絶対王政の時代(16〜18世紀)。16世紀はフランス経済の発展期である。新大陸からの銀の流入は物価の高騰を招き,需要を拡大した。人口増加は顕著であったが,幼児の死亡率の増大によって抑制された。小貴族は没落し,商業によって富をなしたブルジョワが台頭した。大封建所領のオルレアンは1498年,ブルターニュは1532年に王領地に編入され,ブルボネ・オーヴェルニュ・マルシュはフランソワ1世によって没収された。領土の統一は〈一人の国王,一つの法〉という王権の確立を促し,中央集権化のための政策が相次いだ(1539年のヴィレル=コトレ王令など)。しかし,15世紀末から始まったイタリア戦争(1495〜1559)では,神聖ローマ皇帝カール5世に屈してイタリアの覇権を失った。

 16世紀後半はカトリックとプロテスタントががっぷり四つに組んだ宗教戦争によって特徴づけられる。新・旧両派の血みどろの抗争の挟間にあって王権は弱体化の道をたどった。戦争は1562年カトリーヌ=ド=メディシスの摂政時代に始まったが,カステルノーをして〈最悪なるは,この戦乱において,信仰を守らんがため武器を取りながら,その実,いっさいの信仰を無にせしことなり〉と嘆かせ,1572年の聖バルテルミ祝祭日のユグノー大量虐殺はフランス人の良心に重々しくのしかかることとなった。1589年アンリ3世が暗殺されると王位はブルボン家のアンリ4世に移り,彼は1598年ナントの勅令を公布して信仰の自由を唱い,大蔵卿シュリーとともに王国再建をめざしたが,1610年暗殺されて王国はあらたな困難の時代に入った。

 ルイ13世の統治期はリシュリューの時代ともいわれるが,大貴族の反乱やユグノーの蜂起・農民一揆の激発・三十年戦争への介入とまことに多難をきわめた時代であった。絶対王政確立に向かう生みの苦しみの時代といわれるゆえんである。リシュリューは国王の尊厳と王国の隆盛をめざし,「国家理法」の観念を明瞭に意識していたが,彼の理念は,フロンドの乱(1648〜53年)を経て,ルイ14世の親政によって実現された。

 絶対王権は国民を君主対臣民という一元的関係においてはとらえていない。〈社会の社団的編成を前提にした上で,それらの中間団体を媒介にして初めてその支配を維持することができた〉。中央集権化がおし進められたとはいえ,権力(裁判権)の集中は貫徹しなかった。しかし全国三部会は召集されず,高等法院は沈黙を,貴族は従順を強いられ,ナントの勅令は撤回され(1685),ジャンセニスムは排斥された。対外戦争は積極的に進められ,フランドル・ネーデルラントアウグスブルク同盟・スペイン継承の各戦争によって,アルトワ・ルウション・フランシュ=コンテ・エノー(一部)・ストラスブルクを王国に加えることに成功した。16世紀の繁栄と比較して経済は後退し,コルベルティスムをもってしても国際商業戦に勝利できなかった。〈ルイ14世の世紀は,外観ははなやかであるが,中身は貧乏な世紀なのである〉。彼はリシュリューやマザランがヨーロッパの強大国につくりあげた王国を疲弊させて,惜しまれることなくこの世を去った。

 ルイ15世の幼少期はフィリップ=ドルレアンの摂政時代(1715〜20)であり,ジョン=ローのシステムが開始されて失敗した時期である。彼の長い治世は財政危機(オーストリア継承戦争・七年戦争による),ジャンセニストや高等法院の反抗でいろどられた。経済危機(1770〜75,1788〜89)は多数の浮浪者・乞食を生んだが,死亡率の低下により人口は増加傾向を示し,1789年には2,600万人を数えた。社会的危機に産業の危機(1786年の英仏通商条約が起因)が加わった。ルイ16世は治世開始期から政治的危機にみまわれ,テュルゴーネッケル・カロンヌ・ロメニー=ド=ブリエンヌの財政改革に耳を傾けなかった。ルイ14世以来の赤字財政は解消されることなく,民衆の不満はつのりゆくばかりで,啓蒙思想の普及は社会・経済改革の必要性を訴えた。

【革命と帝制】フランス革命は封建制の廃棄を宣言し(1789年8月4日)近代民主主義の発展の出発点となった。憲法制定議会(1789〜91)は新生フランスを組織し,憲法を制定して立憲王政とした。しかし,ルイ16世ヴァレンヌ事件,オーストリアへの宣戦,社会・経済情勢の悪化は王権停止を導き,王制は瓦解した。立法議会(1791〜92)は国民公会(1792〜95)に道を譲り,1792年9月21日第一共和政となった。翌年1月ルイ16世は処刑され,第1回対仏大同盟の結成となった。国民公会は,ジロンド派を追放したのちモンターニュ派の主導で公安委員会を設置し,革命推進を目的として恐怖政治を断行した。その指導者ロベスピエールは1794年7月テルミドールの反動で失脚し,総裁政府(1795〜99)となった。この政体は内憂外患を処理することができず,共和暦8年ブリュメール18日のクーデタで権力は第1統領ナポレオンに移行した。

「革命の落し子」と自他ともに認めたナポレオンはフランス近代国家形成に大きな役割を果たした。市民社会の安定と強化をはかり(民法典と政教協約),対外的には相次ぐ戦勝によって諸外国の封建制を打破した。しかし,1804年皇帝となって帝政をしき,〈大帝国の建設のために抱合された〉大陸封鎖(1806)と,ナポレオン一族や直臣を中心にして再編成されるヨーロッパ家族体制が進行するにつれ,革命の諸原理の展開は遠のき,ナポレオン戦争は征服戦争へと転化していった。泥沼と化したスペイン戦争,永雪の退却を強いられたロシア戦役,そしてライプツィヒでの敗北はナポレオン没落の引き金となった。ワーテルローの戦い(1815年6月)での決定的敗北により,ナポレオン時代は終わった。

【19〜20世紀】王政復古は1830年7月革命によって挫折した。ルイ18世・シャルル10世の治世は時代の自由主義的潮流に順応できなかった。七月革命によって上層ブルジョワジーは1789年の革命でめざした政治的・社会的支配権を獲得した。1820年代の後半から工業化が進み,都市人口の増加を招いたが,都市住民は貧困にあえぎ失業の脅威にさらされていた。1848年2月革命は第二共和政を生んだが,労働者の蜂起(6月事件)のあと体制は保守反動をおこし,大統領となったルイ=ナポレオンは王党派勢力を駆逐するため1851年12月クーデタに訴えて第2帝政を樹立した。1860年までは「権威帝政」といわれたが,その後自由主義的方向に旋回し,経済膨張政策をとりいれた。普仏戦争の結果帝政は瓦解し,フランクフルト講和条約(アルザス=ロレーヌのドイツへの割譲)はパリ=コミューンを発生させた。1875年から第三共和政が始まるが,多数派は王党派。「共和派の共和政」が始まるのは1879年からで,「オポルテュニスト」(ガンベッタのことば)が1889年まで指導し,言論・結社の自由や教育改革(初等教育の無償・義務・世俗性の確立)・植民地進出政策をすすめた。その後は急進党によって教会と国家の分離,司法官の選挙,累進所得税の実現が要求された。第一次世界大戦の直前になると議会制度の危機がおしよせ,立憲政治への信頼は低下した。大戦のあと内閣の不安定性・経済の不況が訪れたが,1925年ごろ繁栄を取り戻し,1929年の世界恐慌がそれに終止符を打った。1930年代はファシストの暴動・人民戦線内閣・ダラディエミュンヘン協定締結とつづき,ドイツがポーランド進撃を開始すると(1939年9月),フランスもドイツに宣戦して第二次世界大戦となった。しかし翌年6月ドイツに占領されたフランスはペタンのヴィシー政権が共和政に肩代りした。戦後の第四共和政は経済復興,独仏の和解(「ヨーロッパの建設」)につとめたが,植民地のインドシナ・アルジェリア政策で苦境におちいった。第5共和政の指導者となったド=ゴールアルジェリア戦争に終止符を打ち,経済成長を促進させ,外交では中国を承認し,NATO から離脱して,一時代を画した。しかし貧富の格差や新しい世代の息吹きは,1968年5月事件を機にド=ゴールの退陣を求め,翌年の国民投票(地方制度の改革と上院の改組について)に敗れて野に下った。ポンピドゥが後を継いだが病死し(1974),ジスカール=デスタン時代はオイル危機や経済不況にみまわれた。1981年社会党のミッテランが選ばれたが国際経済に占めるフランの価値は1970年に比して半減以下となり,経済の再建は期待に反して混迷状況をつづけている。

【文化全般】フランス固有の文化はクリュニー修道院(1088〜1131)・ヴェズレーのサント=マドレーヌ聖堂(12世紀)など11〜12世紀のロマネスク建築とともに開花した。12世紀後半,13世紀の北フランスに建てられたパリのノートル=ダムシャルトル=ランスなどのゴチック建築は古代的・東方的模倣から脱却した独自のキリスト教文化である。しかし大聖堂建築の情熱は百年戦争によって消失し,15世紀に入ると市庁舎・裁判所・施療院など建築の世俗化が進んだ。文学では11〜12世紀の武勲詩(『ローランの歌』)やトロワ作のアーサー王を主題とした円卓騎士物語詩,また市民文学の先駆としては封建的騎士道精神を皮肉に描いた『狐物語』がある。14〜15世紀になるとフロワサールやコミーヌの年代記が書かれ,デシャン・クリスチーヌ=ド=ピザン・シャルティエ・ヴィニョンらの詩人が活躍した。

 イタリア戦争は結果的には多くのイタリア人芸術家をフランスに招きいれることとなり,ロワール河流域に端麗な城が次々と建設された。ヴァロワ宮廷ではクルゥエ一族が画家として名声を博し,彫刻ではグージョン・ピロン・ボンタンがよく知られている。ルイ13世時代は,アンリ4世期のマニエリスムに代わって古典主義が台頭し,絵画ではプーサン・ロラン・シャンペーニュ・ル=ナン兄弟がでた。ヴェルサイユ宮殿はル=ヴォーとアルドゥアン=マンサールらの建築家による。18世紀に入るとワトー・フラゴナールの絵が有名となる。16世紀文学ではユマニスムと宗教改革の影響のなか,ラブレー・マロー・ロンサールモンテーニュらが才能を発揮し,17世紀はフランス語純化運動とともにデカルト・パスカル・コルネーユ・ラシーヌ・モリエールらが哲学・演劇・悲劇の分野で活躍した。ルイ14世の死後は合理主義とキリスト教が袂を分かち,啓蒙思想家ではモンテスキュー・ヴォルテール・ルソー・百科全書派のディドロの名があがる。

 革命・帝政期ではダヴィッドが新古典主義の絵画の基礎をつくり,弟子にグロ・アングルがいる。文学ではスタール夫人・シャトーブリアンがロマン主義に道を開いた。

 1815年以降,絵画ではダヴィッド派がロマン主義に傾斜していった。クールベ・ミレー・コローはレアリスムをめざし,マネをはじめとしてモネ・ルノワールら印象派が台頭し,セザンヌは色彩の使用を体系づけた。ゴーギャンやヴァン=ゴッホの暴力的色彩はマティスの野獣主義につながった。ドガやトゥルーズ=ロートレックロダン(彫刻家)がまだ生きていたころ,ピカソは初めてパリにきた(1900)。

 1820年代,ロマン主義があらゆるジャンルの文学を征服し,抒情詩はラマルティヌ・ミュッセ・ヴィニィとりわけユゴーの活躍で盛況をきわめた。バルザックスタンダールはフランス最大の小説家としての評価を得た。19世紀後半フロベールの作品は近代小説のモデルとなり,ゴンクール兄弟ドーデ・ゾラ・モーパッサンは自然主義の立場に立った。哲学はコントの実証主義によって代表された。音楽の分野では,ラモーからグノー、さらにはベルリオーズが名声を得,フランク・サン=サーンス・ビゼー・フォーレによってフランス音楽の復活が行われた。ドビュッシーは音楽表現の新しい手段を創始した。

〔参考文献〕井上幸治編『フランス史』1968,山川出版社

ジョルジュ=デュビィ・ロベール=マンドルー『フランス文化史』全3巻,1969〜71,人文書院

P.ガクソット『フランス人の歴史』全3巻,1972〜75,みすず書房

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