●フランシスコ=ザビエル
アジア 日本 AD1506 室町時代
1506〜52 スペイン人のイエズス会宣教師。スペインのバスク地方ナバラ王国の貴族の生まれで、バスク名はエチェベリア、それがなまってハビエルとなったが、日本ではポルトガル語読みのザビエル(またはシャヴィエル)が通称となっている。中国名は方済各。
【東洋宣教への誘い】1525年パリに遊学したザビエルは、母国の教会参事会員となり栄達することを夢見るが、1528年同室となったイグナティウス=ロヨラによって、全世界への宣教という使命に燃え、1534年モンマルトルの丘の上で、清貧・貞潔・イェルサレム巡礼・教皇ヘの特別従順の誓願を立てた。これがイエズス会の始まりであるとされる。1537年ヴェネツィアで叙階されたが、オスマン=トルコの伸張により、イェルサレム行きの船便が出ず、ザビエルはロヨラに従ってローマに行き、教皇の指示を求めた。
このころポルトガル国王ジョアン3世は、バスコ=ダ=ガマのインド航路開通以来発展していたポルトガルのインド植民地経営の一環として同地での布教活動の挺入れをはかり、有能な宣教師を探していた。ロヨラとその一行のことを聞いたジョアン3世はロヨラにインド宣教への参加を呼びかけ宣教師の派遣を要請した。ロヨラは最初、シモン=ロドリゲスとフランシスコ=ボバディリャを指名したが、ボバディリャの急病により、ザビエルが加わることになった。1540年、イエズス会が未だ修道会として公認される前に、ザビエルはポルトガルへ赴き、1541年リスボンを出航して1542年インドのゴアに到着した。
【東洋での宣教活動】インドに着いたロヨラはまずゴアで説教活動に従事し、やがてコモリン岬に移って原住民1万人に洗礼を授けた。その後マラッカに渡り、さらに香料諸島を渡り歩いてキリスト教の布教に務めた。彼が日本人ヤジロウ(アンジロウ)に会ったのは、マラッカでのことである。殺人を犯して日本を脱出してきたヤジロウはザビエルに会ってキリスト教に帰依し、ゴアの学院で教理を学ぶが、一方ザビエルもヤジロウを通して日本という国の存在を知り、かつその国に布教地としての可能性を感じた。こうしてザビエルは日本布教の意を固め、1549年トレスフェルナンデスらを伴って鹿児島に上陸した。この地でまずキリスト教を布教し、さらに平戸へ赴いたザビエルは、日本での布教には天皇の許可が必要だと感じ、万難を排して上京するが、折からの戦乱のため天皇に謁見できず、山口・豊後と布教したが、1551年インドへ戻った。日本布教を通じて東洋における中国文化の影響の重大さを感じたザビエルは、中国布教を志して、1552年広東港外上川島に着いたが、入国が果たされぬまま同地に没し、遺体はゴアに移送されて葬られた。
【日本布教の意義】ザビエルは単に日本にキリスト教を最初に伝えたのみならず、イエズス会の東洋宣教の先兵としてその後布教活動の方針を定めた。布教地の文化を尊重し、その地で尊敬される服装をするなど、現地重視の傾向はそのイエズス会の東洋宣教の一つの特徴となった。一方、ポルトガル商人と通じ、キリスト教に友好的な領主との貿易を促進し貿易を布教の手段として活用したのもザビエルに始まる。
宗教改革の最中に生まれた熱烈なカトリック修道会の一員としてキリスト教布教に熱心なあまり、ザビエルが日本在来の仏教や神道を徹底的に非難したことは、神社仏閣の破壊活動を招き、これがキリスト教の布教禁止とキリシタンの迫害にいたったことは皮肉といわざるをえない。しかしそのような在来宗教の否定は当時の布教活動においては当然のことであり、ザビエルがついに日本の宗教を理解しえなかったことも、彼が日本にわずか2年余りしか滞在しなかったことを考えれば致し方のないことであった。ザビエルは、1622年ロヨラとともに列聖され、1927年“東洋の使徒”の称号を受けて、全世界の宣教師の保護聖人と定められた。
