●フランクフルト国民議会 フランクフルトこくみんぎかい
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1848 ドイツ連邦
1848年の三月革命にさいして,フランクフルト=アム=マインで開催された,ドイツ統一を主題にした最初の全国議会。ドイツ国民議会が正式の名称である。【準備】1848年に,フランスで二月革命がおこったとの情報が伝えられると,ドイツでは3月5日,南西ドイツの自由主義者51名でハイデルベルク集会がもたれた。一方,ドイツ連邦議会も3月10日,憲法草案作成のための17人委員会を発足させ,それは4月27日に草案を提出している。ハイデルベルク集会は国民議会を召集する準備を進めるための7人委員会を選出し,7人委員会の計画にしたがって,準備議会が,3月30日から4月3日にかけて,フランクフルトで開催された。集まったのは自由主義者や各団体代表など511名であったが,プロイセンからは131名がきているのに,オーストリア代表は2名にすぎないなど,すでに偏りがみられる。準備議会では,議員選出方法や憲法構想について対立した議論がみられたが,選挙準備のために50人委員会を選び,委員会は5万人に一人の議員と決め,ここから議員定数を831名とし,選挙の実施方法は各邦にゆだねた。
この間,プロイセンでは,3月18日にベルリンで市街戦がおこり,フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は「愛するベルリン市民へ」の布告を出し,3月29日にはカンプハウゼンを首相に,ハンゼマンを蔵相にした,ライン商人による市民内閣が発足し,バーデン・バイエルン・ハノーヴァーなどでも三月内閣が成立して,革命の成果がみられていた。
【構成】各邦国での選挙は,かならずしも問題なしとはしなかったが,一応選挙が終わり,5月18日,フランクフルトの聖パウロ教会(現存)を議場として召集された。議長にはヘッセン=ダルムシュタットの穏健自由主義者ガーゲルンが選ばれた。開催当日の出席者は,パラツキーのように,ボヘミア人であるために出席を拒否したものや,開催日に間に合わないものが多く,330人程度で,その後の出席議員数も400〜450人程度であった。
議員を社会的・職業的にみると,大市民20,小市民42,知識人429で,また大土地所有者38,高級官吏73,官吏217,大学教授49,中学教師57,裁判官159,弁護士66,市町長20となっている。大土地所有者に当たるユンカーは,直接に利害関係の多いプロイセン邦議会に重点をおいたために少なく,農民代表もほとんどみられない。反対に,大学教授や文筆業・弁護士などを含めた自由業が多く,議論のみが多い教授議会の性格が現れている。
政党はないが,思想的には右派・中央派・左派に分かれ,それがさらに右派(保守派)・中央派・中央左派・左派・過激派になる。また,分け方によっては君主主義派と共和主義派,自由派と民主派,小ドイツ派と大ドイツ派ともなる。小ドイツ的穏健自由派がほぼ中央右派に当り,最大の力をもっていた。ガーゲルン・歴史家のドロイゼン・ダールマン・ヴェルカー・ヴァイツらがこれに属し,左派には,10月にウィーンで銃殺された R.ブルームが,過激派にはルーゲらが属していた。
【活動】議会は議論に明け暮れ,時間を空費した。政治的に訓練されていないことが,議会の未成熟の原因というべきであろう。ようやく6月,ドイツの中央機関設立のために,オーストリアのヨハン大公を臨時摂政にし,帝国内閣を設けたが,各邦は中央の権威には否定的であった。議会が空論を重ねているあいだに,ウィーン反革命の成功を機に,プロイセンでも11月反革命がおこった。議会は12月になって,「ドイツ国民の基本法」を定め,1849年3月28日には,立憲君主制を規定した「ドイツ憲法」を発布し,290対240でプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝に選んだ。共和派,大ドイツ主義の敗北である。しかしプロイセン王は,32人の帝位奉呈使節に対し,諸君主の同意なしに帝位を受けるわけにはいかぬと断わった。すでに反革命の空気が強くなり,オーストリアの動向を気にするプロイセン王は,人民が選んだ帝位は王権神授説に背くと判断したのである。議会が1年近くかけて行ったことは,宙に浮いたのであった。
【崩壊】バーデン・ザクセン・プファルツなどでは憲法擁護の民衆運動がおこり,プロイセン王の帝位就任を推した。初期の憲法闘争と呼ばれるものである。しかし,この時点では保守派が勢力をもり返していた。5月4日のドレスデンでは,ボルンらの左派勢力が市街戦に敗れ,5月13日からの衝突では,バーデン・プファルツで労働者・市民が敗退した。この間に,オーストリアが自国選出の議員を解任し,プロイセンがそれにつづき,脱落する議員も多かったので,議員数は200人に満たなくなった。しかも,右派と中央派の議員がぬけたので,左派を中心とした議会となって,各邦政府からねらいうちされるようになってきた。
南ドイツ出身の議員を中心に105名になってしまった議会は,1849年5月30日,ヴュルテンベルクのシュトゥットガルトにのがれて存在をつづけた。これを残部議会と呼ぶ。シュトゥットガルト国民議会は6月6日,5名の帝国摂政団を決め,絶対王政との対決を宣言したが,6月18日,プロイセンの圧力をうけたヴュルテンベルク政府は,武力で議会を解散させ,国民議会は消滅するとともに,三月革命を敗北に終わらせた。
〔参考文献〕廣實源太郎「ドイツ三月革命」『世界歴史』19