●フランク王国 フランクおうこく
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD481
481〜843 ゲルマン民族の一部族であるフランク族が建設した王国。フランク王国においてローマ的要素とゲルマン的要素の融合が進み,中世世界への移行とヨーロッパの基盤が形成された。フランク族はおもにサリ族・リプアリア族・上フランク族からなり,民族移動期にライン川上流からマース・シェルデ川流域に定住していた。これらの部族の統一を行ったのがメロヴィング家の王クロビス(在位481〜511)であった。クロビスは,ローマのパトリキウスであり“ローマ人の王”と呼ばれていたシャグリウスを486年にソワッソンの戦いで破り,アラマン族・ブルグント族を攻撃し,西ゴート族をスペインに追いやって全ガリアを統一し,メロヴィング朝フランク王国の基礎を築いた。そして496年クリスマスに,ランスにおいて司教レミギウスから300人の兵士とともに洗礼を受けカトリックに改宗してキリスト教を国教とした。これにより,アリウス派を奉ずる他のゲルマン諸部族との戦争にさいしてカトリックの擁護と布教という名分を得るとともに,それらの地域に住むローマ人・聖職者の支持を容易に得ることができ,フランク王国の発展にとってきわめて有利となった。511年クロビスの死後,王国は分割相続という部族の伝統によって4人の子供によって分割統治されたが,王国としては発展をつづけた。しかししだいに諸王の内紛が激しくなり,とくに6世紀後半,キルペリッヒ1世の王妃フレデグントとジギベルト1世の王妃ブルンヒルトが所領をめぐって不和となり,きわめてグルーミーな全国的内乱が生じた。この間国内の豪族が勢力を伸ばし,所領を拡大して大土地所有者となって伯や教会の要職に就任し,国王に対し反抗を強め,独立的傾向を示し王国の封建化が進んだ。6世紀末にはアウストラシア・ネウストリア・ブルグントという三つの分国領ができ,そのおのおのに宮宰(マヨル=ドムス)を配置して統治する体制がつくられ,アウストラシアの宮宰であったカロリング家が台頭してきた。カロリング王家の祖であるアウストラシアの宮宰ピピン(大)は,687年テリトリーの戦いでネウストリアの宮宰ベルタールを破り,ネウストリアとブルグントの宮宰を兼任し,全フランクの実権を掌握した。714年大ピピンの庶子カール=マルテルが全王国の宮宰となり,732年ツールとポワチエ間のセノンの野で侵入してきたイスラーム軍を破り,キリスト教世界のヨーロッパをイスラームから守るという世界史的な意義のある功業をあげ,実質上フランク王国の支配者となった。751年カール=マルテルの息子ピピン(小)は,聖ボニファティウスの勧告と教皇ザカリアスの同意のもとにクーデタをおこし,メロヴィング家の最後の王ヒルデリヒ3世を廃位し,ソワッソンでフランク人から国王として承認されるとともに,教皇から国王として塗油されて王位の正統性を承認された。753年には教皇ステファヌス2世からローマ人のパトリキウス(保護者)の称号を与えられ,王権と教皇は保護・被保護の関係となり,754,756年の2度北イタリアのランゴバルドに対し出兵し,ラヴェンナ総督領・ペンタポリス地方を教皇に寄進した。ここにフランク王権とローマ教皇との相互関係が強まるとともに,中世史展開のたて糸をなす“帝権と教皇”の二元主義の素地が生まれた。
768年フランク王となったカールは,ザクセン族・アヴァール族の征服,ランゴバルド王国の併合,イスラーム教徒の撃退とスペイン辺境領設置,バイエルン部族の平定などにより西ヨーロッパのほとんど全域を統一し,フランク王国の最盛期をもたらした。800年クリスマスにカールは教皇レオ3世によって皇帝として戴冠され,いわゆる「西ローマ帝国の復興」がなされた。カール大帝は帝国の統治にあたって法制・軍制・通貨制度を改革し,地方にグラーフ(伯)を配置して国王巡察使を設け中央集権体制をつくった。また古典文化を保護奨励し,宮廷にアインハルト・アルクインなどの文化人が集まり,いわゆる“カロリング=ルネサンス”をもたらした。しかしかかるフランク王国の隆盛も,多分にカール大帝の個人的な力によるものであった。カール大帝の後継者ルートヴィヒ1世敬虔王(778〜840)の死後,その息子たちのあいだで領土問題をめぐって争いがつづき,長い交渉の末ようやく843年ヴェルダン条約が結ばれ,王国が3分割された。すなわち長子ロタールが中部イタリアとロートリンゲンを含む中部王国,弟カール(禿頭王)が西フランク王国,ルートヴィヒ(ドイツ王)が東フランク王国を統治した。その後中部王国は大部分東・西フランク王国に併合された。さらに870年メルセン条約が結ばれ,フランク王国の分割が決定的となり,今日のドイツ・フランス・イタリアの基礎ができた。イタリアでは875年,西フランクでは987年,東フランクでは911年,それぞれカロリング家の家系が断絶し,西フランクにはカペー朝,東フランクにはザクセン朝が成立し,フランク王国は滅亡した。
〔参考文献〕増田四郎『西洋中世社会史研究』1974,岩波書店
A.ドプシュ,野崎他訳『ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎』1980,創文社
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