●ブラジル Brasil ブラジル連邦共和国
南アメリカ ブラジル連邦共和国 AD
日本の国土の22.5倍の国土(851万1,965平方km)をもつ南米東岸の国で,世界第5位の大国である。メソ=アメリカや中央アンデスと異なり,土着の高文化は存在していなかった。このためそれらの2地域と異なり,劇的な征服や文明対文明の対決は生じなかった。このため,おもにポルトガル系の入植者たちは,あまりにイデオロギー的不寛容になることを避けることができた,と考える説もある。上記2地域と異なり,植民地時代(1500〜1822)の初期には,鉱脈が発見されなかったため,一部の砂金採取を除いて,ブラジルでは当初,貴金属の採掘は行われなかった。これに代わる経済活動として,砂糖生産が北東部の海岸平野で行われたため,奴隷制にもとづく大農園がブラジル社会の原型となった。スペイン系アメリカの2大中心地に,初期から都市社会が発達したのと異なり,ブラジルは,行政中心地サルヴァドルを除いては,当初は農村的な性格が強い社会でもあった。また,原住民が定着農耕民でなかったため,入植者は質量ともに満足のできる労働力を入手することができず,その埋め合わせとしてアフリカから多くの黒人が奴隷として連れてこられ,ブラジル社会に人種的・文化的刻印を残した。独立後もブラジルには奴隷制が長く残ったが,スペイン系アメリカでは同じ傾向は,プランテーション経済をもち,独立の遅れたキューバなどでみられただけだった。またスペイン系アメリカ諸国が,程度の差はあれ,流血の闘争をへて独立を達成したのに対して,ブラジルは,ポルトガル王家の王子がブラジル人の要求に応えて独立を宣言したため,比較的整然と本国から分離し,社会の構成も急激に変化することがなかった。19世紀末まで大農牧業主層の支持を受けた帝制(1889年まで)がつづいたため,保守派と自由派のあいだの対立はあったが,スペイン系アメリカ諸国とは異なり,それが内戦に発展することはなかった。またブラジルは,パラグアイ戦争(1865〜70)と第二次世界大戦中に連合国側に参戦したためのイタリア戦線への派兵を別にすれば,対外戦争を経験せず,オランダの侵略を別にすれば国土を外国の軍隊に侵略されたことはない。政治的独立後もブラジル人は,自国の文化に自信をもてないでいたが,1920年代以後しだいに文化的ナショナリズムが強まった。とくに,1960年代末から経済発展の実績から自国を南米の指導国とする見方が,多くのブラジル人に受け入れられるようになった。1964年から20年以上も軍事政権がつづいたが,1985年1月民政移管が決定した。ラテン=アメリカで,メキシコと並ぶ巨額の対外債務を抱え,経済に大きな制約を受けているが,石油を除く各種資源と広大な耕地・牧場に恵まれており,中進国としての地位を確立しつつあることは確かである。【地理的環境】北緯5度16分19秒から南緯33度45分09秒,西経34度45分54秒から西経73度59分32秒までの範囲に位置する。東は大西洋に面し,7,408平方kmの海岸線をもつ。北・西・南で10カ国(フランスの植民地ギアナを含む)と接し,国境線は計1万5,719kmに達する。全体として平坦な地勢で,大西洋海岸沿いに海岸線から10kmから200kmのところに,古いために浸蝕の著しい海岸山脈が走っているのと,北部国境の山地に最高峰ピコ=ダ=ネブリーナ(3,014m)があるのを除けば,さしたる山地はない。国土の約60%は,200mを超える土地であるが,900mを超える高地は約3%にすぎない。亜大陸であるだけに,大きな河川が多く,航行可能な区間は,延4万4,000kmにものぼる。世界第2位の長江で,国際河川でもあるアマゾン川は,477万8,376平方kmの流域から流れてくる水を湛え,海に送り出している。河口のベレンから中流のマナウスまで,外洋船もさかのぼることができる。サン=フランシスコ川は,全長3,161kmで「国家統一の川」と呼ばれ,各地方を結びつける役割を果たしてきた。パラナ川は,南部から内陸にむけて流れる多くの河川を集め,最終的にラ=プラタ川につながる国際河川である。ブラジルが南米大陸の半分を占める広大な亜大陸国でありながら,スペイン系アメリカと異なり,独立時に複数の国に分裂しなかったのは,周囲をおもに,スペイン語圏で囲まれていたこともさることながら,沿岸海運と河川交通の便が比較的よく,通過困難な山地も少ないこと,人口の90%が今でも海岸線から500kmの範囲に集中していることなどの理由から,各地方の連絡が大体良好に保たれていたためである,と考えられている。赤道から亜熱帯的緯度の範囲に位置するため,ブラジルの気候は,概して高温多湿であるが,地形と貿易風などの影響によって修正を受けている。大部分の地方の年間平均気温は30度以上だが,海岸地方では,南方の冷気団が北上するためと貿易風のため,高い気温にもかかわらず比較的快適で居住に適している。ブラジルには,真の砂漠は存在しないが,モンスーン=アジアほどの降雨もみられない。熱帯降雨林のアマゾニアでも,年降水量は2,000mmにすぎない。反対の極にある北東部の内陸部の半乾燥地帯セルタンでは,年降水量は350ミリ程度である。このような気象条件と,農業に適した森林起源の良質土壌の分布から,まず北東部の海岸平野で砂糖生産が行われ,内陸のセルタンと南部の草原で粗放型牧畜が行われた。18世紀半ばには,ミナス地方を中心にゴールド=ラッシュがおきた。19世紀半ばからは,サン=パウロ州のテラ=ロッシャ土壌地帯でコーヒーが大規模に栽培され,多数の移民を引き寄せた。このようにブラジルの経済は,輸出商品が変遷し,活動の中心もある地方から別の地方へと転々と変わった。ある地域は,入植・繁栄・衰退というサイクルをたどることが多かった。長期的には,ブラジルがいくつかの地方に分かれ,それぞれの中心都市がかなり発達したことが,最大都市が極端な首位性を示すことを妨げることに役立った。
【植民地時代】1500年にインド航路をめざして,アフリカ西岸沖を航行していたカブラルの船隊が今日のブラジル海岸に到達し,彼はトルデシリャス条約(1494)にもとづき,ポルトガルの領有権を宣言した。1501年,ヴェスプッチは,カブラルの発見した土地を探険し,有用資源として染料・高級家具材となるパウ=ブラジルという木を見出し,その土地をブラジルと名づけた。1530年ポルトガル王は,マルチン=アフォンソ=デ=ソウザに命じて,ブラジル沿岸部からのフランス人の駆逐と調査・入植と基地設定のために,5隻の船に400人の男子を乗せて派遣した。1532年にソウザは,今日のサントスの近くのサン=ヴィセンチにカピタニアを設立した。同時に,ブラジルは15のカピタニアに分けられ,12人のドナタリオにその支配と開発がゆだねられた。しかし,経済的に自立し得たのは,砂糖生産を行ったペルナンブコと,砂糖・砂金・インディオ奴隷の売却などを基盤にしたサン=ヴィセンチのみであった。王室は,カピタニア制による開発が概して不成功に終わっており,リオ=デ=ジャネイロを根拠地とするフランス人の脅威も除かれていないことを憂慮し,1548年トメ=デ=ソウザを王領カピタニアになったバイアのサルヴァドルに総督として派遣し入植,新都市と要塞施設の建設のため,官吏・兵士・職人・入植者・修道士など計約1,000人を6隻の軍艦・船などに乗せ同行させた。サルヴァドルは,1549年から1763年まで,その地の世襲カピタニアの防衛,監督を任務とする総督府の所在地として,ブラジル植民地の行政・軍事の中心となった。1556年にフランス人は,今日のリオ=デ=ジャネイロの近くに南洋フランスという植民地を建設した。1560年からサルヴァドルの総督メン=デ=サは遠征隊を派遣したが,失敗に終わったので,近くにサン=セバスチァン=ド=リオ=デ=ジャネイロという要塞集落を建設し,周辺のインディオを味方にし,結局1567年フランス人を駆逐した。パウ=ブラジルが枯渇したのちに植民地の経済的基盤になったのは,甘蔗の栽培とその製品である砂糖の生産であった。精糖施設をもつ大農園は,エンジェニョと呼ばれたが,1516年ごろペルナンブコにつくられ,その数は16世紀半ばで5,16世紀末で120に達した。北東部海岸平野の土壌と気候が甘蔗の栽培に最適であったこと,インディオとアフリカ人奴隷の労働力,ユダヤ系市民とオランダのユダヤ資本とのつながりが利用できたこと,スペインがスペイン南部の糖業を保護するため,アメリカ植民地で砂糖を生産しない政策をとったことなどの理由から,ブラジル植民地は,ヨーロッパ諸国に対する砂糖の独占的供給地となり,高い収益を上げることができた。
砂糖生産に必要とされた労働力は,とりわけ初期には,専門業者の手で捕えられ,奴隷化された延べ30万人ものインディオで満たされた。サン=パウロを根拠地とするバンディランテと呼ばれる遠征隊員たちが内陸各地を踏破し,貴金属や宝石を探査するかたわら,インディオの集落やイエズス会士の建設した教化部落を襲い,インディオを捕え,農園などに売却したのである。バンディランテたちの多くは,ポルトガル人とインディオの混血児で,インディオから文化的にも影響を受けていた。初期の各地の入植者たちの多くも,インディオの女性と暮し,混血の子孫を残した。砂糖生産の拡大につれ,インディオ奴隷の供給が不十分であることがわかった。布教の対象であるインディオの奴隷化に反対するイエズス会の提案もあり,1532年ポルトガル王室は,アフリカ人奴隷の導入を許可した。ブラジルから砂糖・火酒・タバコ・マンジョカ粉などがアフリカに輸出され,ヨーロッパ製品とともにポルトガル人・白人と黒人の混血ムラートなどの奴隷商人や,奴隷狩り業者やアフリカ人首長などに奴隷の対価として支払われた。こうしてブラジルに連行されてきたアフリカ人は,植民地人口のなかで高い比率を占めるようになり,とくにリオ=デ=ジャネイロ以北の沿岸精糖地帯では,黒人が白人をはるかに数的に上回っていた。1585年のイエズス会士アンシエタの記録によれば,当時ブラジルには,白人2万5,000人,インデイオ(未教化の原住民は含まれていない,と思われる)1万8,000人,黒人1万4,000人がいた。ブラジル社会の原型とされるエンジェニョは,砂糖を輸出し,ヨーロッパから来る武器弾薬・衣服・奢移品,アフリカから「輸入」された奴隷などを買い入れていたが,その他は農園内で一切を自給する建前であった。このため甘蔗畑のほか,畜舎・畑・森林などももっていた。通例100人程度の奴隷(男性は農作業,女性は家内労働)と,若干の白人混血児や解放奴隷からなる監督や職人,そして農園主夫婦を中心とする白人の一族が住んでいた。農園主の一族は,邸内の女奴隷を妾のように扱い,盛んに混血児を生ませ,身内の監督などにした。家父長の権限は大きく,農園内の全員の生殺与奪の権限をもち,実際面では,軍事警察権まで行使していた。長子相続制によって,エンジェニョの分割が防がれた。白人の子女も黒人の乳母や子守に育てられ,黒人の料理女のつくる食事をとり,アフリカ的な宗教・伝説や民話・言語・料理・音楽などに親しみ,白人男子にとって,黒人女性は母性のシンボルともなった。17世紀のイエズス会士ヴィエィラは,ブラジルが〈アメリカという身体とアフリカという魂をもつ〉といい切っている。1580年から1640年までポルトガルは,東の大国スペインに併合され,ブラジル統治の諸制度にもスペインの影響が現れた。またスペインから独立し,戦争をつづけたオランダがスペイン帝国の一部となったブラジルの富の源泉である北東部の奪取を試み,レシフェを中心にペルナンブコを支配した(1530〜54)。ブラジル人は,人種と地方の分裂を克服して共通の敵を駆逐せざるをえなくなり,ナショナリズムの崩芽が生まれた。またスペインのポルトガル併合の結果,ブラジル人がトルデシリャス条約による西方国境にとらわれることなく西進できるようになり,のちのブラジルの国土拡張の根拠が生じた。結局ブラジルから撤退したオランダ人は,キュラソーやスリナムに移り,ブラジルの糖業技術をカリブ海諸島に伝え,ブラジル糖業の衰退の原因をつくった。
ブラジルにきたポルトガル人は,原住民が貴金属の採取と加工法を知らなかったために,当初から金・銀を大量に採取することはできなかった。17世紀の末(1693年以降),今日のミナス=ジェライス地方などで,本格的な金鉱がサン=パウロからきたバンディランテによって発見され,国内の各地方と本国ポルトガルから,あらゆる階層と人種の人々が殺到するようになった。ついで,同じ地方でダイヤモンドも発見され,さらに内陸のゴイアスやマット=グロッソ地方でも金が発見された。ブラジルから本国に流れ込んだ金は,本国に工業製品の供給能力がなかったために,結局他の西欧諸国に流出し,産業革命の資金となった。ゴールド=ラッシュのため,18世紀初頭から南東部内陸部の人口が急増し,植民地の経済的・人口的重心は北から南に,海岸から内陸に移動した。南のリオ=デ=ラ=プラタのスペイン人の勢力北上に対抗する必要もあって,1673年に植民地の行政中心地は,サルヴァドルからミナス地方の外港であるリオ=デ=ジャネイロに遷都した。またサン=パウロ地方もミナス地方に食料や家畜を供給する仕事を得て,以前より発展しはしめた。ポルトガル王家からスペイン王家に嫁した王女の提案で,1750年両国間の紛争を解消するためにマドリード条約が結ばれた。ポルトガルは,ラ=プラタ川の航行権と同河口北岸を制するコロニア=ド=サクラメントを放棄し,代償にグァラニー族の教化村落のあるミシオネス地方を得た。この条約が原因で,1753〜56年スペインとポルトガルの連合軍に対して,イエズス会士の指導するインディオが実力で抵抗する戦乱がおき,1759年,イエズス会が全ポルトガル帝国から追放される端緒となった。マドリード条約は,また占拠の実績にもとづいて国境を定めたので,ブラジルの国土は,バンディランテの進出により,現在の国土に近い形になった。ミシオネスとサクラメントの交換は,1761年のリオ=パルド条約によって解消された。18世紀後半のポルトガルは,東洋の植民地を失い,ブラジルの富を確保しようとして重商主義的統制を強め,ブラジルの税負担を増大させた。製造業が禁止され,独占貿易会社が設置され,ポルトガル商人がいっそう豊かになり,ブラジル人の農園主層と利害・感情の対立が激しくなった。
【独立後の100年】1807年ナポレオン軍は,対英大陸封鎖に協力しなかったポルトガル懲罰のため,リスボンに進撃し,ポルトガル王室と貴族・官吏ら約1万5,000人は,イギリスの艦隊に助けられて,翌年初頭リオ=デ=ジャネイロに遷都した。同時に,友好的な諸国との通商が自由になり,実質的にはこの時点でブラジルは独立を獲得した。しかし1810年の対英通商条約は,イギリスにポルトガル以上の最恵国待遇を与えたため,産業革命を終えていたイギリスの安価・良質な工業製品が流入し,誕生しかけていた民族系産業の芽をつんでしまう結果になった。1815年ブラジルは,ポルトガルと対等の王国に昇格した。1821年ジョアン6世が本国の要請で帰国したが,王子ペドロ(Pedro)をブラジルに残した。ブラジル人は,国際的な科学者でもあったジョゼ=ボニファシオを指導者として,ペドロを擁立してブラジルの独立達成を画策した。1822年9月7日,サン=パウロ市の郊外イピランガで,ペドロは本国からの帰国命令に接して独立を宣言し(独立記念日の起源),リオでぺドロ1世としてブラジル皇帝に即位した。しかし,残留していたポルトガル人貴族・商人とブラジル人のあいだの対立が激化し,1831年ペドロ1世は退位し,イギリスの軍艦で本国に帰った。皇太子ぺドロは5歳だったので摂政制が敷かれ,1841年にペドロ2世としてブラジル皇帝になった。ペドロ2世は,1889年に共和革命をおこした軍の反乱で退位し亡命した。彼の治政下の半世紀間には概して秩序が維持され,1844年の対英通商条約の失効,1850年の奴隷交易禁止令による奴隷商人資本の国内生産活動への転換などの要因もあって,サン=パウロ地方のコーヒー輸出農業を中心として急速な経済発展が行われた。鉄道網の建設とヨーロッパ移民の大量流入も,コーヒー景気に関連して行われた。米国の南北戦争が北軍の勝利に終わると,アメリカ大陸で奴隷制を保持しているのは,キューバとブラジルのみになり,欧米諸国からの批判も強くなった。パラグアイ戦争(1865〜70)のため,奴隷制に関する論議は凍結されたが,戦後実証主義や共和主義の影響を受けた陸軍将校が戦争に動員された黒人兵士に同情し,軍縮を行う皇帝に批判的になった。1888年皇帝の外遊中に,王女イザベルが即時無償の奴隷解放令(黄金法)に署名し,農園主層の離反を促した。1889年陸軍のクーデタによって帝制が崩壊し,共和革命が行われた。陸海軍が一時政権を担当し,1891年憲法によって,ブラジルは連邦共和国となり,アメリカ合衆国にならって Estados Unidos de Brasil を国名とした。集権的な帝制への反動として,州は輸出税を財源とし,州兵を維持するなど強い権限を与えられた。当時の輸出経済の中心であるコーヒー生産州のサン=パウロと,ミナス=ジェライスの両州が最強州となり,協定により交互に大統領を選出し,連邦政府を支配した。第一次世界大戦は,それまで文明の頂点にあると信じられていたヨーロッパの威信を弱め,1920年代以後ブラジルに文化ナショナリズムが根付き始めた。共和革命後も農園主層の寡頭支配がつづいていたので,陸軍の青年将校テネンテたちは,改革を要求して蜂起したが鎮圧された。1930年,リオ=グランデ=ド=スル州の実力者ジェトリオ=ヴァルガスが,旧体制から締め出されていた諸州の政治家とテネンテたちと提携して武装革命に成功し大統領に就任した。1929〜30年の世界恐慌で,コーヒー輸出に頼りきっていたブラジルの外貨所得は大幅に減り,農園主層は打撃を受けていた。特権を失ったサン=パウロ州は,1932年護憲革命として連邦政府に反乱したが鎮圧された。ヴァルガスは,1934年憲法を公布し再び連邦政府と大統領の権限を強化した。州兵の最高指揮権を大統領に移管し,最高裁の違憲立法審査権も大統領命令には及ばないことになった。ヴァルガスは,1945年軍のクーデタによって退陣するまで独裁的な権力を行使し,民族主義的革命路線をとり,都市大衆に支持基盤を拡大したブラジル最初の政治家となった。彼は,ブラジル労働党(PTB)と社会民主党(PSD)という2政党をつくり,退陣後も強い影響力を行使した。ある意味で近年の軍事政権もヴァルガスのつくった路線を利用している。1945年から1964年まで議会制民主主義が復活したが,個人的な名声と顧客政治にもとづくポプリズム(populismo)と呼ばれる政治が行われ,クビシェッキ大統領のもとで行われた強引な工業化と新首都ブラジリアの建設と遷都(1960)に対する反動として,1960年代には景気後退と悪性インフレが進行し,1964年3月末軍部による革命が行われた。1964年から今日(1985)まで5人の陸軍首脳が軍部門の選考をへて与党候補となり,間接選挙により大統領に就任してきた。1985年1月民間人で野党侯補のネヴェスが次期大統領に確定した。
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