●部落解放運動 ぶらくかいほううんどう
アジア 日本 AD1871 明治時代
1871年(明治4)8月,明治維新政府は近世賤民のえた・非人などを今後,身分・職業とも平民同様にするという太政官布告を発令し,四民平等の近代社会を建設していくことを宣明した。しかしそれは,法的に賤民層をなくすことを公示したにとどまり,その解放にみあう実質的施策を行わなかった。とくに社会の最下底におかれていた,旧“えた”層(部落民)は,旧幕時代のままの悲惨な状況に放置されたままであったため,一般国民と同様の基本的人権の確立要求を政府や社会に向かって厳しくせまった,闘争運動。【近世】近世社会の最下位におかれた“えた”の脱賤要求は,すでに近世中期にめばえていた。1736年(元文7)8月,摂津八部郡宇治野村の部落民は生田神社の神事・祭礼から除外されていることに対し,承服できないとし,往古からの慣習的権利への復権を再三にわたって嘆願した。1823年(文政6),播磨神西郡戸板村の部落民は,取り上げられた入会権の復権をめざし,粘り強く闘った。1826年(文政9),同加西郡皮多村では,皮多村の村役人の呼称,庄屋・年寄・百姓代を「かわた頭・小頭・小走り」と改めようとしたとき,往古からの呼称を改めようとするのは納得できないとして,その撤回を求めた。こうした正面切っての復権闘争とともに,非合法に身分を秘して一般村に潜入することなどを行った。1799年(寛政11),摂津西成郡下新庄村百姓茂助方に下男奉公していた次郎吉ら20人が,“えた”という身分を秘して百姓町家に奉公していたことが露顕した。幕府は不埓であるとしておのおのに30日間の「押込」に処し,また同村の百姓幸七の妻が,“えた”身分でありながらこれを秘して幸七と密通し,のちに結婚,またこの妻が手引きして国もとの“えた”を百姓方に世話して奉公させたことは不埓であるとして,この妻を「50日手鎖」,“えた”身分であるので,その村の年寄りに引き渡して相当の罰をするようにと申し渡した。
幕末期になると,“えた”の部落緊縛令を破る者が輩出してきた。幕府は幕藩体制を支える身分制のくずれを防止するため,しばしば“えた”狩りを断行して,“えた”の脱賤を禁圧した。幕藩制に対する部落民の消極的な解放運動であった。
これに対して積極的に幕藩権力に抵抗する運動もしだいに激化した。1804年(文化1)から1855年(安政3)にかけて丹波篠山藩において本村の隷属下にあった皮多村が,分村独立運動を50年間にわたって闘い,願意を貫いた闘争,1806年(文化3)豊後杵築藩での部落民に「浅黄半襟」を強要したことに対し,成功しなかったものの,領外に2カ月も立ち退いての闘争,1856年(安政3)岡山藩領53部落が結束して藩命による部落民への「無紋・渋染」策を排除した闘争などがある。また,1749年(寛延2)の姫路藩の全藩一揆,1782年(天明2)の和泉北部54カ村の千原騒動,1823年(文政6)の紀州北部280カ村7万人の百姓一揆などのときに,部落民が一般百姓一揆に加わって,幕藩権力をおびやかした。
しかし幕末になって,たとえば1837年(天保8)の大塩平八郎の乱のとき,1866年(慶応2)の長州再征のときなどに,幕府・長州藩とも脱賤を切望する部落民に対し,平民にしようという条件で部落民に動員をかけたりして事実上協力したことは,身分差別をつくりだした幕藩体制の維持存続に手をかす形であった。
【近代】幕末期になると,幕藩体制否定の反封建思想が高揚するとともに,外国からの,人間はすべて平等であるという啓蒙思想(天賦人権説)が広まった。また識者のなかには社会政策の上からも,部落解放策を唱える者が出てきた。1868年(慶応4・明治1),幕府は江戸浅草の“えた”頭弾左衛門とその手下60人余を平民にした。維新政府も1871年(明治4),「部落解放令」を出し,四民平等の立場から近代化政策を,次々に発令した。「解放令」の発令によって,部落大衆は長年にわたる差別から解放されると期待して狂喜したが,一般国民は,自分らは部落民と同じ社会身分におとされ,結婚をはじめ社会慣習・生活様式など,すべて同格にされると恐れて,解放政策反対の大規模な一揆をおこした。中国・四国・近畿・北九州地域に勃発し,政府はこの鎮圧に苦慮した。他方,旧支配者側に対しては,華族・士族として社会的地位の優位と,近代化施策のなかで経済的・政治的特別優遇策を講じた。反面,部落民に対しては「新平民」という新身分的蔑称が生まれ,処遇した。政府は旧賎民の地域・住民であるがゆえに,「社会外の社会」として,行政施策を放置したのでその生活や環境は旧幕時代のまま悲惨であった。近代化のはじめとして義務教育や徴兵制の施行においても,表面的には四民平等であったが,実際は部落学校(分教場)への就学,兵役にしても差別的取り扱いを受け,下士官には進級させなかったり,その義務制が部落民を苦しめた。また,「解放令」によって,従来の部落小作人が小作地から追い出され,自由経済の導入によって伝統的家業が奪われ,そこへ激しい人口増加に悩んだ。1877年(明治10)代の自由民権期に入ると,部落のなかには板垣退助指導の自由党に加入したりして部落解放運動を始めたり,中江兆民のような自由民権論者のなかに部落解放を唱える人物もでてきた。
明治中期になって,日本資本主義が勃興してくると,多くの部落民は,資本主義発展下の安い労働力の供給源となった。また小規模な家内工業や零細な小作農,雑業などに従事する者が多かった。こうした状態であったから,福本日南の『樊噌夢物語』(1886刊)や柳瀬勁介の『社会外の社会穢多非人』(1901刊)のように,部落民を日本の海外発展の市場獲得の先兵にしようという論もでてきた。島崎藤村の『破戒』(1906刊)の主人公,瀬川丑松が部落差別に耐えきれずアメリカのテキサスに旅立つのも,こうした時代環境にあったからであろう。
政府の無策によって,部落の有力者は,自主的な部落改善運動をおこした。1893年(明治26)の和歌山県の青年進徳会,翌々年の大阪での中野三憲らの勤倹貯蓄会,その翌年,岡山県での三好伊平次らの修身会・青年会などがそれであり,1902年(明治35)の岡山県の三好伊平次らの備作平民会,またその翌年,全国的規模の大日本同胞融和会,1912年(大正1)の奈良県を中心とした大和同志会,その翌々年の帝国公道会など,部落改善運動(部落の自粛をとくに強調)が勃興し,融和運動を主張してきた。大正期になると,折からの大正デモクラシーの高揚に伴い,1913年に民俗学者柳田国男の「所謂特殊部落の種類」(国家学会雑誌),1919年(大正8),喜田貞吉『民族と歴史』(特殊部落研究号)などに部落問題が学者らに注目されるようになった。1910年(明治43),いわゆる大逆事件がおこったが,このころから政府も部落対策を講じてきた。しかし治安維持と救貧策の見地からの慈善的恩恵的な行政施策であった。さらに部落の自主的な改善運動がおこってきたが,政府は十分に改善施策を助成し促進することをしなかった。
しかし1918年(大正7)夏,米騒動が勃発して,部落民の蜂起が激しかったことがわかって,政府は部落問題の重要性を認識した。ついで1920年(大正9)奈良県南葛城郡掖上村柏原での燕会の創設から,1922年3月京都岡崎公会堂で全国水平社が創立された。全国水平社は政府の融和事業を排撃し,人間の尊重を基礎とし,団結して自らの行動によって絶対の解放を期し,もって人の世に熱と光を与えることを目的とした。水平社運動の初期の段階は,差別したものに対する徹底した糾弾闘争で,1923年の奈良県都村における水平社対国粋会との流血事件,群馬県世良田村の自警団との事件,26年の福岡連隊事件などとつづいた。しかし運動の激化に伴い,闘争のあり方に内部分裂がおこり,折からのアナ・ボルの対立が水平社運動にも波及し,政治的な労農闘争と連携していく運動となった。これに対して1928年(昭和3)の三・一五事件,翌年の四・一六事件といった共産党弾圧事件に水平社幹部も多く検挙され,折からの昭和恐慌の荒波にあって,水平社運動も沈滞した。1933年(昭和8),水平社は勤労大衆の階級的連携を強化するとともに,部落委員会活動をおこし,不況のなかで部落大衆の経済的・文化的要求を,組織を通して行政に要望していこう,という運動に転じた。これが折からの高松地方裁判所の差別判決閾争と重なり,水平社運動をもりあげた。水平社は政府が1936年(昭和11)から始めた「融和事業完成10カ年計画」に批判的であったが,太平洋戦争の勃発で,しだいに国策順応に傾斜していった。
戦後,日本の民主主義の進行に伴い,部落差別も解消していくかに思われた。1946年(昭和21)2月旧水平社を中心に部落解放全国委員会が結成され,広く日本の民主化に協力しようとしたが,1950年(昭和25)の朝鮮戦争ごろから,日本社会がおちついてくると,部落差別は再燃した。ここにいたって部落民の手による解放運動が積極的に展開されるようになり,1951年(昭和26)秋のオールロマンス事件を契機に,国の行政に差別があるとして行政闘争にもちこんだ。また労働組合や民主団体の協力を得て,国策樹立請願運動を展開した。1955年(昭和30)解放運動をさらに拡大強化するため,全国委員会を部落解放同盟と改称し,糾弾闘争とほかの民主団体との共闘を強化した。ついに1965年(昭和40)8月,部落差別解消は国の責務であり国民的課題とする同和対策審議会答申を得た。この答申にもとづき1969年(昭和44年)7月,10カ年有効の同和事業特別措置法(のち3年延長),ついで1981年(昭和56)12月,政府機関の同和対策協議会の意見具申にもとづき,翌年度から5カ年間有効の地域改善対策特別法,さらに1984年(昭和59)6月,これまでの実態的差別の解消に力を入れた行政を,今後は心理的差別の解消・人権尊重意識の普及高揚の啓発活動に努めるという段階に入った。
〔参考文献〕小林茂編『人権の歴史−同和教育指導の手引−』1981,山川出版社