●扶余 ふよ
アジア 中華人民共和国 AD
前1世紀のころから後5世紀末(494年)まで中国東北地方に存在したツングース系貊族の国家,またそれを構成した支配種族の名称。のちの高句麗・百済も建国伝承のなかで,始祖の出自を扶余に結びつけている古代東北アジアにおける由緒ある国家であるが,その全貌は謎といってよい。本来の扶余は北扶余ともいわれ,ほかに3世紀末,鮮卑族の攻撃により,王の一族が逃れ,沃沮の地(朝鮮,咸鏡道)に建国した東扶余,また高句麗発祥の地であるトウ※注1※佳江(鴨緑江支流)流域にあったとされる卒本扶余の名が知られている。南題した百済がシヒ※注2※(現韓国,忠清南道扶余)に都した時代(538〜660),国号を南扶余と称したこともある。扶余発祥の地は従来二説ある。一つは長春の西北方,松花江支流伊通河畔農安(吉林省)近傍とする説,他方はハルビンの東南方,阿城付近(黒竜江省)とする説である。いずれにしても松花江中流域の大平原を支配領域とする国家であったことは確かであり,種族としての扶余の各称は,中国の戦国時代から知られ,『史記』巻129貨殖列伝に〈北は烏桓・扶余に隣し,東はワイバク※注3※・朝鮮・真番の利を綰(すべ)る〉とあるのが最古の記録である。建国伝承については,後漢,王充の『論衡』巻二,吉験篇にでているものが最も古い形態のものである。それによると北夷のタイリコク※注4※の国王の侍婢が,〈気大なること鶏子の如きもの〉が,天より降りてきて,それに感じて妊娠し,誕生したものが東明であり,扶余の建国者となったとされる。東明は幼少から弓の達人であったため,国王はその国を簒奪されることを恐れ,彼を殺そうとした。東明は南に逃れるが,王の軍勢の追跡を受け,大河の畔まで来たとき,そこには渡るべき橋がなかった。東明が弓でその河水を撃つと,魚や鼈(すっぽん)が浮上して橋をつくった。東明が渡り終わると橋はたちまち消失し,追って来た軍勢は河を渡ることができず追跡を断念した。東明はこの地に都を置いて即位し,国号を扶余と称したという。この伝承の基本的な骨格は,ほぼそのまま高句麗建国伝承のなかに取り込まれ朱蒙伝承を形成した。その歴史の大略をみると,中国の戦国時代,河北より遼東を支配した燕国との接触に始まり,前漢末の王莽の新との交渉,49年(後漢,建武25)にいたり,最初の朝貢が行われた。その後,頻繁に国都および玄菟郡に朝貢。漢末,公孫氏が遼東に興起すると,これと結び高句麗・鮮卑に対抗した。魏の244年(正始5)幽州刺史毋丘倹の高句麗遠征の翌年,玄菟太守王キ※注5※はユウロウ※注6※・扶余の地に侵攻する。285年(太康6)鮮卑のボヨウカイ※注7※に攻撃され,国王依慮は自殺,潰滅的な打撃を受ける。王子依羅が西晋の援助で王国を再建。それ以後衰退に乗じた高句麗の領土蚕食に苦しんだが,晋の346年(永和2),鮮卑のボヨウコウ※注8※の大軍に急襲され,国勢はいっそう衰退し,以後高句麗の従属国として存続。北魏の文成帝のとき一度朝貢するが,新興の勿吉(もつきつ)の攻撃により王都を奪われ,国王やその一族は高句麗へ亡命,その歴史を閉じた(494)。政治は中央に4人の大臣(馬加・牛加・豬加・狗加)と3使(犬使者・大使者・使者)があり,扶余王は水旱を調和する霊威を要求される神聖王であり,諸加(諸首長)の共立によって即位する族制的色彩をも遺していた。全領域は4分され,各地域の邑落の首長が下位の小邑落の首長を累層的に支配するという構造をなしていた。冬至の前後に祭天の儀礼があり,刑獄が断ぜられたが,その刑罰は厳しく,殺人者は死刑,家族は奴婢とされた。国土は平坦で五穀の栽培に適して肥沃であり,牧畜も行われ名馬の産地であった。貂皮などの狩猟獣,砂金・河真珠などの産出も豊かであった。邑落には豪民がおり,“下戸”と呼ばれる一般邑落民は奴僕のように隷属せしめられていた。冬至の前後には国をあげての祭典があり,民衆は連日飲食し歌い舞った。兄が死ぬと弟が嫂を娶る風習や殉葬の慣行もあったという。
![]()