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●不輸不入権 ふゆふにゅうけん

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 荘園にたいする国家権力(とくに国衙)の支配を排除しうる特権。不輸とは,国家から租税の免除を認められたものであり,不入とは国衙の検田使や収納使の立入りを拒否できる権限のことをいう。

不輸租官省符荘】初期の荘園では,不輸は一般に認められず,国衙に租税を納入すべき田,すなわち輸租田がふつうであった。しかし,荘園所有者は,この輸租をのがれるため種々の理由をもうけて政府と折衝し,令の規定で不輸租とされていた寺田・神田に準じて,租税免除の権利を獲得する努力をしたので,9世紀中葉以降しだいに不輸租の特権をもつ荘園が多くなった。この不輸権を認められた荘園を官省符荘といい,そのための手続きはつぎのようであった。荘園所有者から租税免除の申請があると,政府は国司に命じて国衙の役人を現地に派遣し,荘園側の責任者と立合いのうえでその荘園の所在地・範囲・耕地面積などを実地調査させ,その結果にもとづいて,太政官より太政官符を出すとともに,民部省から民部省符を出して租税の免除を認可した。この手続きを当時の言葉で「立券荘号(りっけんしょうごう)」と称し,太政官符および民部省符をもって不輸租の特権を認められた荘園を官省符荘といい,最も正式な手続きをへた荘園としてその特権がつよく主張された。こうした官省符荘は,その後ますます増加したが,やがて11世紀から12世紀にかけて,国司の権限が拡大すると国司の免判だけでも不輸租が認められるようになり,中央に手づるをもたない地方土豪が,国司と結託して免判を獲得したので,多くの荘園が不輸の特権をもつようになった。この国司の免判による荘園を国免荘という。

【不入権の形成】だが,官省符荘のばあいでも,その租税免除の特権は,官省符が出された時点の未開田だけに限られ,その後の開発田については,国司が検田使を遣わして調査し輸租・不輸租を決定することになっていたので,その特権は荘園全体に及ぶものではなかった。まして,国司の免判のみによる国免荘の権利は,国司の意向によって左右される要素をつねにはらんでいた。したがって,官省符荘であれ,国免荘であれ,荘園は不輸の特権だけでは検田使などの国衙の使の入部を拒否できなかったのであり,荘園の拡大を抑圧しようとする国衙に対抗して荘園を維持・発展させていくためには,不輸とならんで,さらに「国使不入」の特権を獲得することが必須の条件となってきた。11世紀には官宣旨などをえて不入権を主張する荘園が多くなり,やがて12世紀にはいって院政がはじまると,院庁下文によって不輸不入権を承認される荘園が増加するにいたった。とくに,白河・鳥羽・後白河の3代の上皇の証認をえた荘園は,「三代御起請符地」として重視され,のちの時代までつよい権利を主張できる根拠となった。不入の特権は,本来は国衙の検田使・収納使などの不入を意味したが,国使の入部禁止の内容はしだいに拡大解釈され,国家による警察権の行使まで否定するにいたる。かくして,荘園はまず不輸の特権を獲得し,さらに11〜12世紀には検田使をはじめ,国家の警察権の行使までも拒否しうる不入の特権をえて,国衙の支配から独立した私的な支配領域を形成しはじめたのである。その結果,不輸不入の成立は,たんに外部にたいして独立的であるばかりでなく,内部的にも,荘園を一円に支配する組織が樹立され,荘内住民の犯罪も荘園領主の裁断に委ねられるなど,荘民にたいする領主の直接的な支配と編成が強化され,ここに中世的な荘園支配体制が完成するのである。鎌倉時代以後,国衙にかわって守護が,荘園領主の不輸不入権を侵害する行動を展開し,荘園側は「守護使不入」を主張してこれに対抗するが,室町時代にはいると,守護請などによってその特権を否定されるものが多く出現するにいたった。

〔参考文献〕安田元久『日本荘園史概説』1957,吉川弘文館

黒田俊雄『荘園制社会』1967,日本評論社