●部分的核実験停止条約 ぶぶんてきかくじっけんていしじょうやく
ヨーロッパ アイルランド AD1963
原爆の開発につづいて米国は1952年11月に,ソ連は1953年8月に初めて水爆実験に成功した。それにより,大型原水爆に対する不安と放射能被害に関する関心が国際的に高まった。とくに1954年3月1日,米国が中部太平洋のビキニ環礁の東方海上で行った水爆実験においては,当初の見積もり(8MT)をはるかにこえる大威力(15MT)が生じ,予想外の地域にまで放射能被害をもたらした。わが国では,その付近の公海上を航行していた焼津市の漁船第5福竜丸が死の灰を浴び,乗組員23名全員が急性放射能症にかかり,久保山愛吉無電長が同年9月死亡するという,いわゆる“第5福竜丸事件”が生じ,国際的にも大きな衝撃を与えた。これらの影響も受けて,1955年5月の国連軍縮委員会の5カ国小委員会では核実験停止の国際協定をつくろうとの提案がなされた。しかし西側諸国はこの問題を他の軍縮問題と分離して討議するよう主張したのに対し,ソ連は核実験停止を他のすべての軍縮問題と一括して討議するよう主張し,また,査察方式などをめぐって複雑な折衝がつづけられた。ついで1958年10月から1962年1月までジュネーブで,米・英・ソ3国により核実験停止会議が開かれ綿密な会議が行われたが,地下実験の管理・査察問題などで折り合わず,審議は行き詰った。かくして,1961年1月20日米国大統領にケネディが就任し,米国もやっと意欲的になっていたころ,3年間の実験停止を申し合わせたにもかかわらず,1961年8月にはソ連が核実験を再開し,まもなく,米国も実験を再開した。かくて,核実験に関する条約が早急に締結される可能性はうすらいでいった。このような国際的背景のもとに,1962年10月キューバ危機が発生する。ソ連がキューバにソ連製のミサイル・核搭載爆撃機を配置し,対空ミサイル陣地などを建設して,ソ連の軍事要員を配置して米国に核脅威を及ぼそうとした。しかし,ケネディ大統領は断固たる信念にもとづき,米国の核戦力優位を背景として,キューバの海上封鎖を行った。これに対し,フルシチョフ=ソ連書記長は米国のキューバ不侵攻の条件のもとに,キューバから攻撃的兵器を撤収して危機一髪のところで核大戦が回避された。このようなキューバ危機の体験から,何としても核戦争だけは回避せねばならないという強い信念が米ソ始め各国首脳に芽生えたのである。それまでに,核実験に成功していた国は米ソ英仏の4カ国であった。核保有国の数がさらにふえれば,キューバ危機のごとき事件が発生した場合の問題解決はますます困難になるだろう。米ソ英は核に関するデータはかなりもっており,追加的には地下核実験のみで十分であろう。また,現在核を保有しない国に対しても核実験を禁止してしまえば,核の水平拡散(核保有国がふえること)が防げるものと考えられた。かくして,1963年8月5日モスクワにおいて米ソ英3国が“部分的核実験停止条約”に調印,同年10月同条約発効の時点では108カ国が調印するにいたった。同条約は正式には大気圏内・宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約といわれ,大気圏内・宇宙空間および水中における核兵器実験爆発その他の核爆発(平和利用を含む)を禁止するのみならず,国境を越えて放射能灰が降下するような環境での実験をも禁止している。このような条約が調印されたことは画期的なことではあるが,核保有国である仏・中国が当事国となっていないこと,核実験を禁止したとしても核兵器の譲渡・購入,技術やデータの譲渡などによって,核の水平拡散の可能性が残されているなどの問題点を含んでいる。わが国は1964年5月25日国会承認,同年6月15日に効力が発生した。〔参考文献〕防征学会編『国防用語辞典』朝雲新聞社
澤頭一豪「軍縮」陸戦学会誌,1982.7