50音順    検 索

●普仏戦争 ふふつせんそう

ヨーロッパ フランス共和国 AD1870 フランス共和国第三共和政

 プロイセン(ドイツ)とフランスの戦争(1870〜71)で,ドイツ統一の完成をもたらした。

【戦争の原因】戦争の根本的原因は,フランスのナポレオン3世による,ドイツ統一への妨害工作にあった。普墺戦争後,マイン川以北にはプロイセン中心に北ドイツ連邦が成立したが,南ドイツのバイエルン・バーデン・ヴュルテンベルクは,プロイセンと攻守同盟と関税同盟によって結びつけられていたとはいえ,反プロイセン感情は,いぜんとして強かった。とくにバイエルンとヴュルテンベルクでは,1868〜70年に反プロイセン勢力の伸長が著しかった。南ドイツにおける反プロイセン的動向は,ナポレオン3世の妨害工作と連動していた。プロイセン首相ビスマルクは,その政治戦略の基本を,ナポレオン3世を討つこと,このことを通じてドイツ全土をナショナリズムの熱火に溶かしこみつつ,統一を完成することにおいた。このようなとき,スペイン王位継承問題がおこった。1868年9月,スペインで革命がおこり,立憲君主制が確立され,新国王として,プロイセン王家ホーエンツォレルン家の支流ジグマリンゲン家の王子レオボルトに白羽の矢が立てられた。ナポレオン3世はこれに反対し,ビスマルクは推進した。フランス側の強硬な圧力のまえに,1870年7月13日,エムスの離宮にいたプロイセン王は,ついに折れ,その旨をビスマルクに打電した。ビスマルクはこれに手を加えて公表した(エムス電報事件)。独・仏両国の世論は沸騰し,フランスは7月19日プロイセンに宣戦した。

【戦争の経過と結果】フランスの宣戦を受けて,プロイセン王は,北ドイツ連邦の諸支邦に動員令を発し,南ドイツ諸邦国も,攻守同盟にもとづいて動員態勢をとった。フランス側は軍備も立ちおくれ,輸送力や兵站線も不備のままであった。これに対してプロイセン軍の準備は,普墺戦争の経験もふまえ,作戦計画・輸送力・地勢把握もゆきとどいていた。緒戦は,アルザス=ロレーヌ方面で行われたが,メッツ・ストラスブールの両要塞をのぞいて,ドイツ軍の制圧するところとなった。緒戦に失敗したナポレオン3世は,最高司令官の地位をおりた。8月後半期には,フランス軍はメッツとセダンに完全に分断された。ドイツ軍は,セダンに集結したナポレオン3世軍を包囲・攻撃した。9月1日,ナポレオン3世以下8万2,000人の将兵は,ドイツ軍の捕虜となった。他方,メッツに包囲されたフランス軍も,10月27日に降伏した。ところが,9月4日パリに暴動がおこり,帝政が廃止され,臨時政府が抗独戦の意思を表明したので,ドイツ軍はパリを包囲した。ドイツ軍の砲撃のまえに,1871年1月28日,パリは陥落した。フランス新政府は,2月26日に仮平和条約を結んだ。だが3月18日,パリ民衆の反乱がおこり,3月28日,パリ=コミューンの成立が宣言された。ドイツ軍は,コミューン紛砕のため,フランス政府に8万人の政府軍の編成を許可するとともに,大砲の連射によって政府軍を支援した。5月28日,パリ=コミューンは圧殺された。これに先立つ5月10日,フランクフルトで講和の本条約が結ばれた。これによって,フランスはアルザス・ロレーヌの2州を割譲し,50億フランの賠償金を支払うことになった。

【戦争の性格】パリ陥落に先立つ1871年1月18日,ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で,プロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式が,軍旗林立のもと挙行された。普仏戦争は,ドイツ統一の障害を除去するという目標を追求したかぎりでは,ドイツにとっての国民戦争であった。だが,アルザス・ロレーヌを割譲させ,さらにはパリ=コミューンを血の海のなかに圧殺したことは,フランスに対する侵略と人民弾圧の戦争であった。

〔参考文献〕望田幸男『ドイツ統一戦争』1979,教育社

林健太郎「ドイツ統一と戦争」『プロイセン・ドイツ史研究』1977,東京大学出版会