50音順    検 索

●婦道 ふどう

アジア 日本 AD 

 女の守るべき道。女の守るべき道とは何かということは,男には男の果たすべき役割があるように,女には女の役割があるという性別による役割分担と,その役割を立派に果たすべきだという努力目標の明確化とその指針である。しかもその目標は,儒教倫理を最高の価値とする封建時代の社会において,男性本位の思想がなんら疑われることなく女の性の生得的劣性や,それに付随して要求される性別役割の不可避性を教え込み,女性をできるだけ理想に近い程度までに教化することである。そのために編まれたのが女訓書である。日本の婦道教育に大きな影響を与えた中国の代表的女訓書より見る。中国の女訓書では,女子教訓のためにとくにつくられたものに『列女伝』がある。西漢の劉向(りゅうきょう),(前79?〜前8?)の選になるもので,劉向以前の中国の歴史に活躍した女たちのなかから,母の鑑(かがみ)・妻の鑑・女の鑑とすべき女性像,および悪女の見本として戒むべき女性像を取り出し110人を収める。婦道のうち最も重んぜられたのが節操であり,母としての子の教育について強調され孟母三遷が有名である。続いて今日まで影響力をもったのが代表的な女訓書,後漢の『女誡』・唐の『女論語』・明の『内訓』・清の『女範捷録』の四書で『女四書』と称した。『女誡』は女子教訓書の魁(さきがけ)をなすもので,とくに家庭婦人としての道を正面から筋を立てて説き明かしたものとして最初のものである。その後の諸書のほとんどが本書に準じている。序文によれば著書は班昭。曹世叔の妻であったことから曹大家(そうたいこ)と尊敬される。この書は結婚適齢期を迎えた自分の娘たちのための遺書で,女の劣性と,それゆえの忍従を強制する精神を説いた。『女論語』は8世紀末,唐の女学士宋若昭の選と伝えられるが疑義がある。内容は『女誡』が基本的理念を説いたのに対し,家庭生活のなかでの“女の役訓”について詳述したもので大衆性をもつ。『内訓』は,明の皇帝成祖の皇后であった徐皇后が,1404年に先君の高皇后に仕えて学んだ礼法をもとに選したもの。皇帝の周圍に多数の宮妾をかかえる皇后の立場と,外戚の専権を戒める皇后の地位について論述したもので,士大夫階級にも適用され得るものである。『女範捷録』は,明末・王集敬の妻で,王晋升の母・劉氏の著。その夫の没後節を守ること16年,90歳のとき朝廷はその苦節を賞した。女子教育の重要性を論じ,初めに知恵をのちに才徳を与えるべきと論及している。この『女四書』が逸早くわが国の江戸時代に輸入され,日本の女訓書の手本となりさらに極端化された。日本における女性道徳は,中国文明の伝来に影響されること大である。大宝律令(701)によって政治的・公的に,女性は中国さながらの法制下に置かれた。儒教の説く親に対する孝道と夫に対する貞節である。これらをよく守る女性を孝女・孝婦と呼び,貞女・節婦という。この精神をうえつけるため節婦表彰を行っている。768年(神護景雲2)から870年(貞観12)に至る102年間に表彰されたものの概略は次の通りである。[1]夫の死後再婚しなかったもの18人,[2]夫を弔慕慰霊したもの14人,[3]夫を慕って哭泣(こうきゅう)したもの10人,夫の墓のそばから離れなかったもの8人,夫のため念仏・読経・写経を続けたもの5人などである。孝女兼節婦は2人のみでほとんど節婦である。日本の女訓書については,『日本教育文庫』の「女訓篇」「孝義篇」「教科書篇」(同文館)による。「孝義篇」には『本朝二十四孝』『本朝女鑑』12巻・『本朝列女伝』10巻などで歴史上の人物の言行を語ることによって教訓を汲み出させようとするものである。「女訓篇」には,鎌倉時代の阿仏尼の『乳母のふみ』から江戸末期の吉田松陰の『女訓』までが網羅され,「教科書篇」に『女大学宝箱』(女大学)『女実語教』『女訓孝経』『女小学』『女論語』などが収められている。「女訓篇」の各篇を対象別に分類すると次の通りとなる。[1]姫君に与えたもの。『乳母の文』(阿仏尼)・『めのとぞうし』(不詳),[2]身内の娘や嫁・孫娘に与えたもの。『北条幻庵覚書』(北条幻庵長綱),『東照宮御消息』(徳川家康)・『あしの下根』(伊達吉村)・『女五常訓』(上杉鷹山),[3]将軍の御台所心得として書かれたもの。『さよのねざめ』(一条兼良),[4]母などに諭したもの。『千代もとぐさ』(藤原惺窩)・『徳川家光御消息』(徳川家光),[5]夫が妻に与えたもの,『難波江』(白河楽翁侯),[6]自戒をこめてつくったもの。『処女賦』(井上通女),[7]一般的な女訓書。『婦女嘉言』(不詳)・『女子訓』(熊沢蕃山)・『女家訓』(不詳)・『唐錦』(成瀬維佐子)・『女式目』(不詳)・『女仁義物語』(久保旅友?)・『鉄漿訓』(三浦梅園)・『女訓』(佐久間象山)・『女訓』(吉田松陰)となる。内容は,女訓書として最も流布した江戸時代について言えば,自然界における天地二元対立が,そのまま人間界の上下尊卑の秩序を支えるものとして考えられた。父子・夫婦でも上下の秩序の存在を明らかにし,夫は天であり,婦は地であるとする。近世儒学の祖と言われる藤原惺窩は『千代もとぐさ』に〈夫婦,この間は天地の如し,夫は女(め)をあわれみ,婦は夫をたふとみて,互に怨みなきようにすべし〉とある。陽明学派熊沢蕃山は『女子訓』のなかで,男女の仕事の明確な区分を説いている。江戸時代は一夫多妻を倫理的に正しいものとした。そのために本妻の心得として嫉妬の慎むべきことを説いているものに,仙台侯伊達吉村がその姫君付子に与えた訓誡書『あしの下根』がある。〈ものこしの法に,天子は十二人,諸侯は九人,卿大夫三人,士は二人の婦女を置くとかや,これはいささかもいろをこのみ,え(淫)むにひかるるにあらず,世継のおほからむためぞかし。庶人にくだりてこそ,一夫一婦のものなれども,子なき時は,おもひものとておく事あり。まことに人の妻たらんものは,夫のために女を求めすへて,世継のたえざらん事を願ふこそ道ならめ,かへりて他をそしりねたみあるは浅間しくはづかしき事ならずや〉。大名の妻の心得である。女の守るべき道を徹底させるため,民衆の教化に努めたものに,貝原益軒の『和俗童子訓』巻之五「教女子法」がある。先に見た中国の女訓書が細大もらさず盛り込まれたもので『女大学宝箱』の下敷と言える。益軒は女性を生まれつき陰柔にして不智なものと見ている。〈凡そ婦人の心様の悪しき病は,和(やは)らぎ順(したが)はざると,怒り恨むると,人を謗(そし)ると,物妬(ねた)むと,智恵浅きとなり。此の五つの疾は十人に七八は必ずあり〉とし,片時も目を離さず教え導いて,理想の女性とするため具体的にどうすべきかを説く。まず〈早く女徳を教ふべし。女徳とは,女の心さまの正しく善なるを云ふ。女の徳は和順の二を守るべし,和とは,心の本として,かたちことばもにこやかにうららかなるを云ふ。順とは,人に従ひて背かざるを云ふ。婦人に三従の道あり,凡,婦人は柔和にして人に従ふを道とす。其のつとむるところは,舅夫につか衣服をこしらヘ,飲食を調ヘ,内を治めて,家よく保つを以てわざとす。婦人に七去とて悪しき事あり。一にてもあれば夫より去らるる理なり。我が家にありては,我が父母に専らに孝を行ふ理あり。されども,夫の家に往きては,専ら舅姑を我が二親よりも猶重んじて,厚く愛しみ敬ひ,孝行を尽すべし。婦人は別に主君なし。夫を誠に主君と思ひて,敬ひ慎しみで事ふべし,女は常に心遣ひして,其の身をかたく慎しみ守るべし〉(以上『教女子法』より抜粋)。順序こそ違うが『女大学』とほとんど同じである。明治以降家族国家思想のなかで,「良妻賢母」の婦徳に『女大学』の婦徳が復活し,民法において妻を無権利状態においた。女訓書が女子教育において歴史的に果たした役割は大きい。

〔参考文献〕志賀国「儒教の女性観と教育」『日本女子教育史』1968,福村出版

筧久美子「中国の女訓と日本の女訓」『日本女性史』3巻近世,1982,東京大学出版会

01