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●ブッダ

アジア インド AD 

【尊称】ブッダ(仏陀)は,目覚めた人・悟った人という意味の普通名詞に使われるので,固有名詞としてより明確にするためいくつかの名で知られている。ゴータマ=ブッダ(瞿曇)・ゴータマ=シッダッタ(悉達悉陀)・ゴータマ=シッダールタ・ゴータマ=シャーキャムニ(釈迦牟尼,釈迦族出身の聖者),さらに普通には,釈迦と呼ばれている。また如来・世尊(Bhagavan)・釈尊とも呼ばれる。

【歴史的仏陀の資料】19世紀後半より,インド亜大陸における仏教復興運動および民族遺産として尊重する運動とあいまって,洋の東西を問わず仏教研究が開始され,とくにヨーロッパ研究者の間で歴史的仏陀についての研究の気運が高まった。文献資料としては,ラリタヴィスタラマハーヴィストウなどの混淆サンスクリット語・サンスクリット語文献,『方廣大荘嚴経』『佛本行集經』など漢訳大蔵経・チベット語訳大蔵経文献がある。またセイロンなどに伝わるいわゆる南仏のパーリ語聖典の文献がある。ほかに現地調査による考古学資料もある。しかし,これらの豊富な文献資料そのものが,歴史と伝説・史実と架空信仰的譬喩の混じったものである。時代的により古いパーリ文献ですら,近代の合理的・実証的視点に十分に耐え得るような,歴史的事実を直接に叙述したものとは言い難い。したがって以上の研究法以外に,仏教以外の共時的・通時的文献との比較研究および譬喩的・宗教創作的資料からの比定などの多角的研究がなされ,その方法論によってかなりの差異が見られるものの,総合的に考えるとブッダの生涯の全体像の輪廓は確定した。オルデンベルク・ベック・ヴァルトシュミットなど東西の研究者が続々と現れ研究を続けている。

【ブッダの生涯】ブッダの生誕および入滅年代については,多数の説があり,入滅に関しても,前544・486・484・483・482・478・477・388・386・383年の各説が出された。北伝・南伝の関連文献およびアショーカ王の年代を根拠として出されているもので,入滅に関しては,前5世紀の最初の4半世紀説と前4世紀の最初の4半世紀説に大別され,生誕はその80年前である。ブッダはヒマラヤ山麓近くに住んでいたシャーキャ族(シャカ族,釈迦族)の出身である。父のスッドーダナ王(浄飯王(じょうぼんおう))は小国の王であり,母はマーヤーという名であった。小国の都はカピラヴァストゥと言った。マーヤーが出産のため実家に帰り,ルンビニーという遊園に赴いたときに生まれた。誕生後7日目に母マーヤーが死亡し,母の妹のマハープラジャーパティが継母として養育した。少年時代のブッダは,学問・技芸・武芸万般の教養を身につけ,17歳で(16歳ともいう)結婚し,最初ゴーパーをめとり,王妃にヤショーダラーをめとり,ほかに一人加えて三人の妃がいた。この三人は同一人物とも言われるが,ヤショーダラーは,ラーフラを生む。一説には,仏陀出家時には夫人が懐妊中だったという。周囲の愛情・物質に恵まれ,何不自由なかったが,老病死の見聞とそれへの思索を機縁として,29歳のとき,肉親・地位・財産を一切捨て出家する。当時,解脱に一歩でも近づこうとする出家修行者が各地にいたが,ブッダはその仲間に入り修行に努め師を求めた。ヴァイシャーリー近くのアーラーダ=カーラーマに師事し,やがて師の境地に達し,ガンジス川の南のマガダ国のラージャグリハ(王舎城)の近くのパーンダヴァ山に滞在修行する。国王ビンビサーラが面会に訪れるほどの偉容に達している。その後さらにウドラカ=ラーマプトラ師のもとで修行するが所期の目的を達せず,ナイランジャナー河(尼連禪河)のほとりで一人あらゆる苦行に専念したが,6年または7年,死の直前になってもなお寂静の境地に達するものでないことを知り苦行を捨てた。ブッダガヤの地の菩提樹下で坐禅を行い,さまざまな妄想・執着などの悪魔的誘惑を退け,一切の苦悩を消滅させまた苦の解明を行い最高の真理を得,解脱に達し,成道に至り,仏陀の自覚を得た。ときに36歳または35歳であったと言う。ほかの覚者とは異なり,ブッダは体得した真理の内容を人々に伝えるべく,西のムリガダーヴァ(鹿野苑,現在のサールナート)に赴き,真理を伝える最初の説法を行う。これが初転法輪と呼ばれているものである。ここにブッダの仏教教化・布教運動が開始され,入滅までの45年間ガンジス河中流を遍歴しながら続けられた。ベナレスでは旧友5人を弟子にして小さな教団が成立した。ナイランジャナー河畔でも多数の弟子を得,彼らとともにマガダ国ラージャグリハに赴き,ビンビサーラ王を帰依させ王都郊外に竹林精舎を寄進した。その後,マガダ国内で,多数の信者を得,各地で精舎が寄附される。シャーリプトラ・マウドガリャーヤナ(目ケン※注1※連・目連)・マハーカーシャパ(大迦葉・摩訶迦葉)が弟子になり教国はさらに大きくなる。七葉窟・霊鷲山が有名である。ブッダが故郷カピラヴァストウを訪れたときに,いとこのアーナンダ(阿難),子のラーフラを初め多くが仏門に入った。いとこのテーヴァダッタ(Devadatta, 提婆達多)の入門・反逆の逸話も有名である。またコーサラ国の都シュラーヴァスティー(舎衛城)ではスダッタ(須達多)長者が帰依し,祗樹給孤独園(略称,祇園精舎)を寄進した。ブッダは,さらに西のカウシャーンビーまで訪れている。結局ブッダは,現在のインドのビハール州,U・P州東部,ネパール南部を周遊布教を行った。とくにラージャグリハヴァイシャーリー・カピラヴァストゥ・シュラーヴァースティーのコースを反覆往復している。最後の旅では,ラージャグリハの靈鷲山から,現在のU・P州のクシナガラ(拘尸那伽羅・抱尸那・拘尸・拘夷)に達しそこで入滅する。ブッダ時代に実際に仏教を維持し普及したのは主として出家集団であった。ブッダ在世中は,後世のように細部にわたる戒律の整った組織的な僧伽(サンガ)や強力な在家組織はなく,ごく初期は基本的には,樹下・岩陰に敷布をもって宿り,死体焼場などに捨てられた襤褸(ぼろ)切れを集め・洗い・黄褐色に染め・縫ったものを纒(まと)い,托鉢で乞食(こつじき)して午前中に一切の食事を終わり,禅定し仏法を説いて遍歴するのが出家で,バラモン・王侯貴族・職人・不可触民などとヴァルナ・カーストを一切超えていた。しかし,各地で出家者数が増大し問題も出てきたため,ブッダ在世中から戒律と儀礼および僧組織が萌芽的形で現れ,僧庵から僧院(ヴィハーラ)の寄進をブッダは認めている。しかし衣食住を質素に,結婚・性生活を禁止し,仏法に殉じる基本線が守られた。アーリア人がインド西北部に侵入してすぐインダス川流域にバラモン教の覇権が成立した。しだいに東漸していったが,ブッダの時代は,ブッダの活動した現ビハール州はバラモン権力が未だ確立せず,王族・新しい経済人が力をもち,反バラモン教的自由思想家が活躍していた。ブッダと仏教はそこに出現した。

【仏教の教義】ブッダが,形而上的思弁をなるべく排して比喩・詩を用いて法を説いたこと,対機説法を用いたことなどにより,教義はブッダ入滅時にすでに多様な内容をもっていた。パーリ語三蔵とその相当漢訳を研究し大乗経典も検討すると,存命中に説かれた教義が推定できる。人間の平等の主張・極端を排する実践哲学・四諦説・四法印・縁起説などが当初から説かれていたと考えられている。ブッダのこの教義と一生を貫く慈悲に溢れた活動が,アジアの多くの地に仏教を広めた。

〔参考文献〕中村元『ゴータマブッダ』1958,法藏館

渡辺照宏『仏教』1974,岩波書店

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