●仏教伝来 ぶっきょうでんらい
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6世紀の仏教の伝来は日本史上の画期的文化事象であるが,この事象をめぐる伝来年次説と受容経過の実態についてそれぞれ諸論が提示されている。【伝来年次】伝来説には私伝説と公伝説とがある。522年(継体天皇16)説などの私伝説と552年(欽明天皇13)説および538年(宣化天皇7)説の二公伝説である。522年説などの諸説はいずれも仏教の初伝説であるが史料上の信頼性はない。ただ5世紀ごろからの新漢人の渡来と活動から見て,これら渡来人によって公儀前にももたらされたらしい。公伝二説中,552年説は『日本書紀』を原拠とする所説であるが,この説は次の諸点から書紀編さん時に創作されたと考えられるので,552年公伝説は首肯度が低い。百済聖明王の上表文は703年(唐長安3・日本大宝3)の訳である『金光明最勝王経』「寿量品」などの経語を取捨して書かれたものであるが,執筆者を書紀の編さんにかかわった道慈に比定できること,さらに552年(壬申)はその年立が仏陀入滅の前949年(周の穆王53壬申)を起算年としているなどの諸点からである。538年公伝説とは『元興寺伽藍縁并流記資財帳』・『上宮聖徳法王帝説』などを原拠とする「欽明天皇7(戊午)年」説である。『日本書紀』中の欽明朝の32年間に戊午年は存在しないにかかわらず,上記の諸古伝がいずれもそれを所説とするのは,書紀の継体朝と欽明朝との間に安閑・宣化両朝が介在するという説に対抗して主張される欽明朝は継体朝の直継であるとする説に拠っているからである。ここで言う「介在説」と「直継説」とは,書紀の継体朝〜欽明朝の記事の錯綜に基づいている。介在した安閑・宣化両朝と直継した欽明朝は両方とも継体朝のあとに並立している。したがって欽明7(戊午)年は宣化3(戊午)年に他ならず,史実上から見て538年仏教公伝説が有力である。
【受容可否の抗争】仏教公伝を受けた6世紀の日本は氏姓国家であったが大臣・大連制のもと,皇室の勢威は進展し大臣蘇我および大連物部両氏の族勢も巨大化の過程にあった。皇室・大臣・大連勢力による三極分立が深まった時代である。この形勢は欽明朝の大臣に任じられたことにより初めて大臣・大連制の一端を担うことになった蘇我氏の登場によって拍車がかかった。蘇我氏は大和高市郡を本拠とし,5世紀後半に三蔵(みつくら)の検校として仕え,三蔵の財務運営にあたった漢・秦・文氏を統轄したと伝えられる。渡来系氏族と関係を早くからもち海外事情に通じた氏族である。物部氏は軍事・刑獄を主業に祭祀にも通じ,祭祀専業の中臣氏と並ぶ守旧的傾向の強い氏族である。大臣・大連をそれぞれ蘇我氏・物部氏が勤める欽明朝に伝来した仏教の受否をめぐる抗争は『日本書紀』によると,蘇我氏が〈西蕃の諸国もっぱら皆これを礼す。豊秋日本あに独り背かんや〉と奏したのに対し,物部氏は中臣氏とともに〈蕃神を拝さば恐らく国神の怒を致さん〉と同奏したのを端緒とする。この対立は587年(用明天皇2)の物部氏の滅亡時まで続いた。抗争経過を通じてこの姿勢は両派とも一貫しており,仏教と国神との信仰抗争の観を呈するが,仏教教理の理解の上に立った信仰上での受否を争ったものでなく,両氏のそれまでの傾向に基づいた氏姓国家内の政治的主導力をめぐる抗争が中心であったと言われる。
【仏教文化の受容】抗争は半世紀に及ぶが,554年(欽明天皇15)の百済渡来僧交替,577年(敏達天皇6)の百済の律師・禅師・比丘尼・呪禁師・仏工・造寺工の渡来,584年(同13)の仏殿営作と法会の設斎,588年(崇峻1)の百済僧9人・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工の渡来など,この間仏教文化の受容はしだいに進み,飛鳥文化の中心である推古朝の仏教文化発現の素地となった。
〔参考文献〕上益田宗「欽明天皇十三年仏教渡来説の成立」『日本古代史論集』1962,吉川弘文館
井上薫「日本書紀仏教伝来記載考」『日本古代の政治と宗教』1966,吉川弘文館
田村圓澄「仏教の伝来」『田村圓澄 日本仏教史1 飛鳥時代』1982,法蔵館
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