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●普通選挙運動 ふつうせんきょうんどう

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 普選運動という。普通選挙権を要求する社会運動。1892年(明治25)東洋自由党内に組織された普通選挙期成同盟に始まるがやがて消滅,1897年に結成された普通選挙期成同盟会が,1900年普選請願書を提出して運動を具体化し,さらに1901年,普通選挙同盟会と改称16議会以来有志代議士が普選法案を衆議院に上程,次いで1905年,国家社会主義者が社会主義者らを含む普通選挙連合会がつくられたが,直接行動論の台頭により,片山潜派以外の社会主義者は脱落している。それほど幸徳らの影響は強かった。議会内でも1911年には衆院は通過したが貴族院で否決され,大逆事件の結果運動は挫折している。

 大正期になり,吉野作造のデモクラシー思想の政論的基礎を得,1918年(大正7)の米騒動を契機として大衆運動へ発展している。原内閣が直面した第一の問題は米騒動の後始末で,議会の審議もそれを中心に行われた。そのとき過激思想は国民意志を無視した政治を生んだ危険なる思想を防止するために,民衆尊重の国民基礎のもとの政治を行うこととなった。民衆の普選要求の具体的な動きはこのときを契機に強くなり,労学会や新人会・黎明会がつくられ促進され,小ブルジョア民主主義者や進歩的インテリゲンチャの指導の下に大衆運動化している。そのとき山県は普選は国を亡ぼすものと考えたが,山県系の侍田健治郎は普選を許さなければ階級対立の緩和はできないと述べた。そして府県会でまず実施して衆議院に及ぼすことがよいと考えた。そしてしだいに普選運動に立ち上がる者が増えた。島田三郎は階級制度打破のために選挙権の大拡張を説き,労働問題解決のための防波堤になると述べている。原内閣は普選に反対している。その点からすると平民宰相のイメージについても疑問を感ずる。町村レベルの選挙における普選方式の採用の画期は,1921年の市町村会議員選挙法改正で,1922年の新農会法である。町村会選挙で普選方式をとった。これは原敬内閣の後をうけた高橋是清内閣で成立させている。1925年2月日本農民組合は全国大会において町村会議選挙方針を決定し,町村レベルの普選を尊重している。そして小作人は全国で進出している。

 たしかに政友会政府はつねに普選による革命努力の助長をおそれるあまり,過激社会主義取締法を用意し,共産主義より無政府主義を恐怖した。これへの反対運動が学者を中心に組織されている。加藤友三郎内閣は普選法案は46議会で4度も否決された。そのときも足をしばっていたのは政友会であった。山本内閣は挙国一致内閣であったが虎の門事件で引責辞職し,そこでそのあと清浦超然内閣がつくられた。清浦貴族院内閣も階級闘争を激化させるとの理由で護憲倒閣の対象となった。その後をうけた加藤高明内閣は政党内閣への道を開き,護憲三派内閣と言われた。ここにおいて普選の実施のため枢密院との妥協策として治安維持法の制定を条件としているが,労働・思想団体の反対を招いている。

 治安維持法の制定で,普選実施で進出を予想される労働者の階級政党への動きを抑える対策を確立している。その上で普選実施に力を尽くしている。1925年の衆議院議員選挙法は納税額制限を撤廃したが,婦人および植民地人民の参政権を拒否,欠落条項に生活困窮者・無住居者などがあった。そのため婦人参政権運動はその後も続くこととなった。戦後1945年(昭和20)の大改正で諸制限を撤廃,1947年,新憲法で性別・財産・身分に関係なく選挙権および国会議員・地方議会議員・地方公共団体の首長・教育委員の被選挙権が与えられた。かくして普選が実施されることとなった。しかし,形式的には一応完全な形での普通選挙法となっているが,選挙運動に巨額の費用がかかること,普通選挙を腐敗させる最も主要な犯罪である選挙違反が跡を絶たないことなど,問題を指摘することができる。