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●婦人参政権 ふじんさんせいけん

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 婦人が政治に参与する自由と,公務を実行し得る権利を言う。明治維新を経て男女平等が唱えられ,男女間の差別をなくす方向へと進むかに見えた。しかし,自由民権運動が展開されるなか,1885年(明治18)に起きた大阪事件を契機に,女性が政治に参加することに対する圧迫が加えられるようになった。

大日本帝国憲法の発布】1889年(明治22)2月11日に発布された大日本帝国憲法では,欽定憲法と皇室中心主義の基本方針に則り,女性の参政権は無視された。さらに翌年7月に集会及政社法が公布され,その第4条に〈…軍人・警察官・官立公立私立ノ教員学生生徒・未成年者・及女子ハ,政談集会に合同スルコトヲ得ス〉として,女性の政治活動はまったく禁じられた。ただ第1回帝国議会が11月に開催されたとき,徳富蘇峰・蘆花の母である徳富久子・新宿中村屋を創設し芸術家の後援者であった相馬黒光(そうまこっこう)の叔母である佐々木豊寿(とよじゅ)・日本最初の婦人誌「女学新誌」を刊行した巌本善治夫人の巌本甲子(かし)など21名の有識女性により,議会の傍聴の許可願が陳情された。21名は中立系の政党に働きかけ,どうにか傍聴権だけは認可された。

【治安警察法の制定】1900年(明治33年)集会・結社・言論の自由を抑圧する治安立法が施行された。この立法は集会及政社法を継承したもので,これにより政治問題に関係する結社・集合はまったく禁止され,解散権を警察が保持することとなった。女性の場合も〈女子及未成年者ハ公衆ノ合同スル政談集会ニ会同シ若(もしく)ハ其ノ発起人タルコトヲ得ス〉として政治関与の道は一切鎖され,以後この条例の改正撤廃の要求が繰り返されることとなった。この運動が婦人参政権運動の始まりである。この先駆者的役割を果たしたのは,堺利彦・幸徳秋水らの創設した「平民社」の女性たちであった。

平民社青鞜社】1903年(明治36),「万朝報」の日露戦争開戦論に反発した堺利彦・幸徳秋水は,社会主義を中柱に自由・平等・博愛に基づく平民主義・平私主義を唱えて「平民社」を結成,「平民新聞」を刊行した。これに賛同した女性たちは女性の解放のためにはまず政治に関与しなければならず,そのためには参政権を得ることが必要であるとして,治安警察法第5条の改正および撤廃を叫んで立ち上がった。

 さらに1911年(明治44)になると,平塚雷鳥を中心とした若い女性たちによって,新しい女性をめざして文学集団である「青鞜社」が結成された。女性が男性にかしずくことを女性の美徳とするような古い道徳を打ち破り,真の女性の解放を主張する内容をもっていたため,純文芸雑誌であった路線はしだいに婦人参政権獲得を目的とした啓蒙誌へと変更されていった。雷鳥の〈元始,女性は太陽であった〉という論文は,運動の指針となって長く影響し続けた。「平民社」も「青鞜社」も発禁処分を受けながら,それぞれ立場を異にするものの婦人問題に関しては同様の論陣を張って,婦人の知識の向上・開眼に尽くした。

新婦人協会の設立】第一次世界大戦(1914〜1918)終了後,世界各国で婦人参政権獲得運動が盛んとなり,まずイギリスで婦人の政治社会同盟が直接行動に訴えて,1918年に獲得に成功した。次にロシアが時を同じくして獲得,翌年にはドイツが,1920年にはアメリカが,さらに引き続いて欧米ではほとんどの国が婦人の政治参与を認めた。わが国では1919年(大正8),普通選挙獲得運動が起き,これに伴って女子にも選挙権を認めさせる運動が平塚雷鳥によって起こされた。1920年(大正9)雷鳥は市川房枝・奥むめをらと「新婦人協会」を結成した。同会は治安警察法第5条改正案の衆議院通過(貴族院で否決)を手初めに,母性保護・平等を要求した。これらの運動は1922年(大正11)の治安警察法改正・婦人の政談集会参加と発起の許可という成果をあげた。しかし参政権獲得には至らず新婦人協会は解散,1924年(大正13)婦人の政治活動団体が団結して,婦人参政権獲得期成同盟会結成,翌年婦選獲得同盟と改称し運動は続行され,1945年(昭和20)のポツダム宣言によってようやく婦人の参政権が認められたのであった。