●藤原頼長 ふじわらのよりなが
アジア 日本 AD1120 平安時代
1120〜1156(保安1〜保元1) 平安時代後期の政治家。関白忠実の第二子で母は土佐守藤原盛実女。幼時より学を好みよく励んで,文は好まなかったが学名大いに高かった。父忠実に愛され若くして高位に進み,1149年(久安5)30歳で左大臣となった。兄忠道は忠実正室の所生,父と不和であったが頼長は父を後楯にこの兄と争った。そして妻の兄藤原公能の女多子を養女として近衛天皇の後宮に納めのち皇后に冊立(1150年3月)。その年父より兄忠通の氏の長者をとって与えられ,翌年仁平元正月内覧の宣旨を受けた。鳥羽法皇の信厚く兄を越えて権勢高かった。しかし近衛天皇が1155年(久寿2)7月死し,それが頼長らの呪咀によるとするその母美福門院らの怨みから法皇の信を失い内覧を止められた。当時父法皇に迫られ譲位して強い不満を抱く崇徳上皇と結びいわゆる保元の乱を起こして敗れ傷を負い死んだ。宇治左大臣・悪太府などと言われるが,当代の俊英策略家の信西入道とは親交があった。日記『台記』は内容きわめて豊かで,その学識と当時の政界の内情をよく語っている。