●婦人運動 ふじんうんどう
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婦人の地位向上・権利確立をめざすため,集団と組織をもって社会・政治・文化などの各分野で行う大衆的社会運動。具体的には参政権獲得運動・廃娼運動などの婦人解放運動を言う。【自由民権運動と婦人解放論】自由民権運動が展開するなか,1878年(明治11)土佐の楠瀬喜多は女性演説家として,男女同権を説いた。喜多は高知市弘岡で1836年(天保7)に生まれ,1854年(安政1)土佐藩剣道指南役楠瀬実と結婚したが,1871年(明治5)死別する。以後政治に興味をもち,40歳ごろ征韓論を唱えて野に下った板垣退助の設立した立志社の民権運動に参加し,民権婆さんと呼ばれていた。このころ同じく土佐出身の植木枝盛は1879年に『男女同権ニ就キテノ事』と題した論文を書いて民権運動に参加した。植木は1857年(安政4)生まれで,1873年(明治6)に上京し,「明六雑誌」に掲載された福沢諭吉の『男女同数論』などに啓発された。福沢はこのほかに『日本婦人論』『男女交際論』『女大学評論』を書き,天賦人権論や自由平等思想に基づく婦人論を主張した。植木も上京以前女大学に通った経験をもち,婦人解放論を説き男女同権を叫んだ。こうした自由民権論者による婦人解放論は民権運動の挫折により,家庭・婦人の問題が中心となった社会改良論として展開していく。
【岸田俊子と景山英子】岸田俊子は1863年(文久3)京都に生まれ,17歳のとき文事御用掛として宮中に奉仕し皇后に漢字を講義した。2年後に退職して土佐に滞在中,自由民権運動を展開していた立志社の坂崎紫瀾・宮崎夢柳と交遊し,しだいに自由民権思想を志すようになった。1882年(明治15)には大阪での演説会に弁士として出向き,“婦人の道”を説いた。岸田は清楚な面影をもち,声もよく通ることを武器として,お姫さまスタイルで演説したという。人々の関心をひく才能があり,京都の演説会では黒白赤の三枚重ねのようなファッションショーまがいの演出までしてみせた。各地で演説会を開催するなか岡山に立ち寄り,ここで景山英子が俊子の演説を聞き影響を受けたのである。岸田は1883年(明治16)大津での演説会で『函入娘』という題で論じ,集会条例違反の罪で逮捕された。出獄後は作家として「自由燈」の客員となり,論文を多く投稿した。1886年(明治19)自由党副総理中島信行と結婚し,政治活動に終止符を打って横浜フェリス女学校の教師として女子教育に尽くす。1892年(明治25)39歳で病死した。景山英子は1865年(慶応1)岡山に生まれる。19歳のとき岸田俊子の演説を聞き婦人解放に身を投じる。そのため母と一緒に昼間働く女子のため夜間部のある蒸紅学舎を設立した。しかし集会条例によって学舎は閉鎖され,「自由燈」の記者坂崎紫瀾のすすめで上京,大井憲太郎らと大阪事件に連座し逮捕される。出獄後,大井とともに関西を遊説し結ばれる。のち1892年(明治25)福田友作と結婚するが8年後に死別。これ以降婦人の経済的独立をめざす角苫女子工芸学校の設立。平民社に近づき,1904年(明治37)『妾の半生涯』を出版,3年後「世界婦人」を刊行して一貫して婦人解放運動に専念した。このあいだ栃木県谷中村の足尾銅山鉱毒問題で奔走する田中正造の援助をするなど社会問題にも目を向ける。1927年(昭和2)61歳で死去。岸田・景山両人は婦人運動の先駆的役割を果たした。
【廃娼運動と矯風会】1872年(明治5)のマリア=ルーズ号事件を契機に娼妓解放令が出されたが,娼妓は自由意志で営業するも可能という内容となっており,遊廓は貸座敷と名を変えただけで公娼制度は存続した。こうした現状に対し自由民権運動が展開され,人権思想に基づく婦人解放論の啓蒙を目的として廃娼論が唱えられていた。こうした状況下,1882年(明治15)群馬県で日本最初の廃娼が決議された。しかし実施は11年後であり,1888年(明治21)には洲崎遊廓が誕生するなど運動は多難であったが,ようやく1890年(明治23)に全国廃娼同志大会が開催され,さらにキリスト教宣教師により,儒教思想に基づいて行われてきた女子教育による女性蔑視思想を改める運動がおきた。1886年(明治19)矢島楫子が創立した東京婦人矯風会がそれであり,矯風会は19世紀後半のアメリカにおける禁酒運動の影響を受け,禁酒運動および一夫一婦制の提唱,さらには廃娼運動を推進した。1893年(明治26)には日本基督教婦人矯風会として全国的組織となった。中心は矢島のほか久布白(くぶしろ)落実・守屋東らであった。矯風会は娼妓が自由廃業をすることを勧め保護する運動を行った。自由廃業とは民法第90条で認められた娼妓稼業の契約は自由であると定められた点に則って,娼妓を自ら廃業することを訴えるもので,その最初は1899年(明治32)に名古屋遊廓の佐藤ふでによってなされた。これを契機として翌年には同じく名古屋で娼妓によって東雲(しののめ)のストライキが行われ,藤原さとが自由廃業の訴訟に勝利を収めた。これらの功労者は宣教師モルフィや秋山定輔の「二六新報」であった。1900年(明治33)自由廃業を認める娼妓取締規則が出されると,自由廃業する女性は増加し,1909年(明治42)までに2,559人が自由となり矯風会に保護された。またロンドンに本部を置くプロテスタントの一派で軍隊組織をとる救世軍が1895年(明治28)山室軍平らによって日本でも創立され,廃娼運動を展開した。このころは日露戦争後の社会運動・婦人運動が盛んになっている時期であり,普通選挙が叫ばれ,治安警察法第5条による女性の参政阻止の撤廃を訴えていた時期でもあった。1911年(明治44),江原素六・島田三郎・矢島楫子らキリスト教徒たちによって“廓清会”が結成された。廃娼運動が最も盛んに行われたころで,演説会・雑誌などによる啓蒙運動のほかに,矯風会はからゆきさんとか慰安婦と称されていた海外での娼婦一掃と少女保護に乗り出した。このため少女達が売られていったシベリアや東南アジア(とくにマレー半島),売られた少女たちの出身地で最も多かった天草・島原の調査を行っている。廓清会の設立の契機は1900年(明治33)以来続けていた自由廃業運動と,1911年に吉原遊廓が全焼し,焼失を契機に再建を阻止しようとする反対闘争を起こしたことであり,さらに曽根崎・難波新地遊廓での廃娼運動,飛田遊廓新設反対運動へと関連していった。このように廓清会と矯風会は連合して廃娼運動を行い,1926年(大正15)の大震災後の遊廓復興の動きに対しても一体となって反対運動を展開した。しかしながら遊廓を廃絶することを目的とした運動は娼妓の発生をくい止めるまでには至らず,1958年(昭和33)売春防止法が実施されるまで続けられた。
【参政権運動と市川房枝】1900年(明治33)に治安警察法が制定され,第5条で女性の政治結社への加入は禁じられ,女性が政治集会の発起人となることはもちろん参加することすら禁止した。これ以後,第5条の改正と撤廃を要求する婦人参政権運動が展開された。1906年(明治39)平民社の婦人が最初に条約改正請願運動を行った。1911年(明治44)には平塚雷鳥が“青鞜社”を結成し新しい女性の生き方を主張,参政権運動へと進んでいったが,一方では国家主義的運動も盛り上がりを見せ,1901年(明治34)愛国婦人会が結成されて,国防を軸として展開するなど多様な婦人運動が繰り広げられた。こうしたなかで,1920年(大正9)市川房枝・奥むめお・平塚雷鳥らによって新婦人協会が結成された。翌年,同会は女性自らの手で2,355人の署名を集めて婦人参政権の要求を貴族・衆議院の両院に提出した。市川房枝は1893年(明治26)愛知県で生まれ,小学校教員・名古屋新聞の記者を経て1918年(大正7)上京し,山田わかや平塚雷鳥と交友を結ぶ。労働総同盟友愛会が女性を受け入れ婦人部をつくるとそこへ入会し,常任委員として第1回婦人労働者大会を開催。のち渡米して婦人労働問題・婦人問題を研究,帰国後新婦人協会を創立し,戦前・戦後を通じて婦人参政権獲得・婦人労働問題のために生涯を捧げた。以上のように婦人による運動は婦選・平和・廃娼・禁酒・母性保護などを目標に掲げて多数の運動団体により展開され,婦選では1924年(大正13)婦人参政権獲得期成同盟を結成,労働運動では無産婦人運動が1921年(大正10)赤瀾会結成を発端とし,関東婦人同盟に継承された。戦時体制下では国防婦人会に代表される一連の運動であり,戦後は婦人労働問題を中心として,物価引き下げ運動・平和運動・教育の民主化・社会保障の推進など市民婦人運動へと発展し,日本婦人有権者同盟・主婦連合会・日本婦人団体連合会などが結成され,国際婦人団体とも協力しつつ日本母親大会など多様な分野で活動している。