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●藤原道長 ふじわらのみちなが

アジア 日本 AD966 平安時代

 966〜1027(康保3〜万寿4)平安中期の公卿。藤原兼家の五男。986年(寛和2)兼家が一条天皇の外祖父として摂政に任ぜられてから道長も昇進の速度を早め,995年(長徳1)には兄藤原道隆藤原道兼の相次ぐ病没のため,権大納言で内覧(准関白)となり,次いで右大臣に任じ翌年左大臣に進んだ。以後,一条・三条両朝20年にわたって一の上(いちのかみ)と内覧の座を独占し,さらに1016年(長和5)外孫の後一条天皇の践祚(せんそ)と同時に摂政に就任した。道長は翌年早くも摂政を辞して長男藤原頼通に譲ったが,世人はなお“大殿”と呼んで尊重しその権勢は少しも衰えなかった。有名な〈この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)のかけたることもなしと思へば〉の歌は,1018年(寛仁2)10月16日,娘の威子後一条天皇の皇后(中宮)となった夜の祝宴で道長が即席で詠んだ和歌で,太皇太后彰子・皇太后妍子と合わせて,三人の娘が同時に后位に並び立つという空前の栄華を誇ったものである。翌年道長は病により出家,法名を行観と定め,次いで行覚と改めさらに法成寺(ほうじょうじ)を造営したが,1027年(万寿4)12月4日,62歳をもって同寺無量寿院(むりょうじゅいん)において没した。世に御堂殿と称し,その子孫は御堂流と呼ばれ永く摂関の座を独占した。その日記は,『御堂御記』『法成寺摂政記』『御堂関白記』などと呼ばれ,自筆原本14巻その他の写本が伝存しているが,最も通用している“御堂関白記”の称は,道長が関白に任命されなかったにもかかわらず,長く内覧の地位に在ったために生じた後世の誤解に基づく命名である。

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