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●藤原惺窩 ふじわらせいか

アジア 日本 AD1561 室町時代

1561〜1619(永禄4〜元和5)江戸初期の儒学者。名は粛、字は斂夫、惺窩はその号。別号は柴立子・北肉山人など。父は参議侍従冷泉為純。兄弟五人中の三男。家領のある播磨国三木郡細河村で生まれる。7、8歳のころ同国竜野の景雲寺に入り、東明宗昊ついで文鳳宗韶に師事して臨済禅を修行。僧名をソウシュン※注1※という。1578年18歳のとき実家は別所長治に焼き打ちされ、父と長兄左近衛少将為勝は敗死したため、家族とともに京都に上る。相国寺南豊軒に入り禅学とともに儒学おそらく朱子学を学ぶ。1590年30歳で朝鮮国使の許山前などと交流して朱子学への傾斜を深める。翌年関白豊臣秀次に謁見するが再度の出頭を拒む。1593年33歳のとき、徳川家康に招かれて江戸城中で『貞観政要』を講義。1596年36歳で明に渡ろうとしたが船が暴風に遭って失敗。翌々年京都で朝鮮の儒者キョウコウ※注2※と親交を結び、大きな学問的影響を受ける。1599年39歳のとき、竜野城主赤松広通の求めに応じて四書五経に、朱子学に基づいた訓点を施す。1604年44歳、林羅山を弟子とする。1614年54歳のとき、羅山が家康に献策して京都に学校を建てて惺窩をその学生にしようと計ったが実現せずに終わる。惺窩は生涯出仕しなかったが浅野幸長・同長重・細川忠利・戸田氏鉄ら諸大名の尊信を集めた。還俗した時点は明確でないが一男一女がある。惺窩の儒学は朱子学を基本にするものの、理気説では朱子学的な理気二元論ではなく陽明学的な理気一元論の立場を取り、また禅的・老荘的な要素を含み、戦国時代の天道思想の影響を受けている。主著は、『寸鉄録』『大学要略』『文章達徳綱領』『惺窩先生文集』など。

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