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●藤原時代 ふじわらじだい

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 日本史における時代区分の呼称の一つで,主に美術史で用いられる。894年(寛平6)の遣唐使の廃止と1185年(文治1)の平氏の滅亡を一応の目安とし,その間の約300年を言う。ただし政治史で用いる場合は,摂関政治が定着し藤原氏が全盛を誇った時代すなわち摂関時代とほぼ一致し,冷泉天皇の即位(967年)から後冷泉天皇の崩御(1068年)までの100年間を言うが,この100年は美術史上の藤原時代盛期に当たり時代呼称の根拠でもある。

【時代の概観】7世紀中ごろから中国の文物・制度を移入して以来,日本の文化は中国唐代文化の強い影響を受け,平安時代初頭には唐風文化の最盛期を迎えたが,9世紀も半ばを過ぎるとようやく唐風からの脱却と和様化の傾向が見られるようになった。遣唐使は838年(承和5)の発遣を最後として事実上終わり,次いで唐王朝も内乱のため衰亡に向かっていた。文化全般にわたる和様化の背景には外来文化の影響力の低下があり,遣唐使の廃止をその象徴とし時代の画期をここに置くのも理由なしとしない。また国内政治の面では,皇室との外戚関係を足場とする藤原摂関政権が第一歩を踏み出した。藤原良房は嵯峨天皇の皇女源潔姫(みなもとのきよひめ)を娶り,その娘明子を文徳天皇の後宮に入れ,その所生清和天皇を皇位につけて人臣最初の摂政となった。藤原氏は以後もこれに倣って女子を天皇の後宮に入れ,外戚関係を政権の重要な支えとしたので,後宮が宮廷生活・文化の一中心となり,公家文化に大きな影響を与えた。その頂点が三人の娘を同時に太皇太后・皇太后・皇后に並び立たせて栄華を誇った藤原道長の執政期である。しかし外戚関係は偶然に左右される面が大きいから,外戚関係のない後三条天皇が1068年(治暦4)即位するや,藤原摂関家の勢威は急速に衰えやがて上皇が主導権を握る院政の時代に入った。院政下の宮廷社会では,摂関家を含む上級貴族も新興のなか,下級貴族も争って上皇の権勢に結びつき,さらに一部の武士勢力も上皇の手兵となってその地位を高めたのでおのずから次代の新しい文化に向かう徴候も表れた。しかし初めて公家勢力から政権を奪った平氏も自ら宮廷貴族化し,独自の武家文化を創造するに至らずして滅亡した。

【時代の文化的特色】この時代の文化の特色は,全般的な和様化の現象としてとらえられるが,それは初めて日本文化の完成した形がつくり出され,以後の文化の土台となったことをも意味する。その創造の推進者は前代以来の文化の担い手,宮廷貴族である。かれらは唐風文化にあこがれながらも,衣服・住宅など日常的な生活文化は風土に適合したものに回帰せざるを得ず,そこから多様化の波が文化全般に波及したのである。衣服は唐制を大幅に改造した束帯(そくたい)や直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)に落ちつき,住宅は桧皮葺(ひわだぶき),床張(ゆかばり)式の建築に庭園が結びついて寝殿造りと呼ばれる開放的な住宅様式が完成した。さらに屋内は屏風や几帳(きちょう)で間仕切りとし,さまざまな調度品を置いたが,それらも大和絵や漆工芸などの発達を促した。また後宮勢力の増大も藤原文化の形成に大きな影響を及ぼした。優美・繊細・柔和を尊ぶ女性的嗜好は,仏像彫刻をはじめ美術工芸全般に波及したが,とくに女性の活躍が著しかったのはかな文学の分野である。平安初期に生まれたかな文字は,その発達普及に伴って,男の真名(まな)に対する女の文字とされた。才といえば漢才(からざえ)を意味し,漢字・漢語をあやつって漢詩文をつくる作文(さくもん)を表芸とした男性に対し,女性はかな文字を駆使して思考・心情を素直に表白することに成功し,かな文学の最盛期を築きあげ藤原文化の大きな特色としたのである。次いで藤原時代も後半の院政期に入ると,政治・社会情勢の変化が文化に反映し,また奥州平泉をはじめ文化の地方伝播が顕著になり,旧文化の爛熟と新文化の萌芽が交錯して現れた。