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●富士信仰 ふじしんこう

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『常陸風土記』には筑波山の筑波神とともに,駿河の富士山の福慈神(ふじがみ)のことが書かれている。いずれも山岳信仰に発する神であるが,日本一高い富士山の神ゆえのことであろう。関東にもその神名が語られていたらしいことは興味のあるところだが,もちろんその信仰の内容は明らかではない。こうした素朴な山岳信仰の神としての福慈神も,8〜9世紀にかけ富士山の噴火活動が激化すると素朴な山岳信仰は一変し,『延喜式』神名帳に見るように「浅間神明神大」というように浅間神に変わるのである。浅間神が浅間山などの名とかかわり火山にその語源があるであろうと言われているが明らかではない。

 富士山の火山活動にかかわりつつ発達した浅間信仰(あさましんこう)は,富士山の見える裾野の一角に富士山そのものを神体とする遥拝所を中心とする浅間神社がまず現れ(山宮),ついで人里近い湧水地の辺にこの神社は下って祀られていた(里宮)。これは富士山の信仰の表れである浅間信仰が,鎮魂の信仰(山宮)から,鎮火の信仰(里宮)に変化したことを示すものであって,これはこれら信仰の持ち主の知的意識の変革に対応し,またこうした信仰形態の変化の延長線上に,祭神を木花咲耶媛(このはなさくやひめ)とする信仰に発展するのである。日本神話の天孫ニニギノミコトの妃となった木花咲耶媛が浅間信仰の祭神となるのは,媛がその子を生むとき火の燃えさかる室のなかであったが母子ともに健全であったのは,媛に水徳があったからであるとされ,この水徳をもった神を富士山に祀ればその水徳によって荒ぶる火の神を鎮めてくれるであろうと考えた結果であり,里宮の多くが湧水地や湖水など水辺に祀られているのは火に対する水という,五行相剋の思想に支えられた浅間信仰の発達を示すものである。

 浅間信仰を中核とする富士山信仰も,奈良時代に見る役小角(えんのおづぬ)の伝説を契機にして山岳仏教と習合するようになると,浅間信仰浅間信仰(せんげんしんこう)に変わり,またそれに対応して信仰形態も著しく変わっていった。すなわち役小角の伝説にあやかってであろう,富士山に登ることが信仰の中核を占めるところとなり,それを象徴する代表的人物として駿河生まれという伝説的僧侶末代上人が登場し,富士山に登ること百回余,頂上や山腹に寺院を建立したと伝えられている。平安末期のころである。こうしたことが都に住む後白河法皇の耳にとまったのであろう,『梁塵秘抄』のなかで,富士も諸国の霊場に並ぶ一つとされていた。信仰の形態が変わると富士山麓に鎮座する浅間神社の祭祀組織も神仏習合となり,富士山本宮浅間大社にあっては神職の長である大宮司家と社僧の長である別当家とが成立,両者の協調によって祭祀は執行されていた。

 富士山に登ることが富士信仰の中心であると理解されるようになると,室町から戦国の時代になって,富士山麓地方には富士登山をめざす道者が押しかけ,山麓の交通の要地には「道者商人問屋」という富士登山をめざす道者を対象にした問屋(宿屋も兼ねる)も発生し,それら道者の先達はこの地の山伏(法印)らが当たっていた。富士信仰に画期をもたらしたのは戦国末に現れた九州長崎の生まれだという長谷川角行の存在である。諸国を遍歴したのち富士人穴(富士宮市人穴)に入って修行,後世江戸を中心に栄える富士講の教義を構築,その教義は日旺・旺心・月旺らに継承され,さらに月旺の弟子月行の系統が身禄派に,また月心は光清派にそれぞれ発展して江戸町人を対象にその勢力の拡大を図っていた。

 富士講が富士信仰の発展の一つとして江戸町人にもてはやされたのは,イキやハリを身上とする江戸ッ子にも内面的には突張りきれない弱さがあった,その弱さが富士講の信仰に走り,ふつうならば富士登山をするのであるが,不可能な場合もあったから江戸市中に富士塚(駒込・高田・目黒等々)を造り,それに登って代用するなど,幕府の弾圧にもめげず盛行を極めていた。富士講が盛んになると,講員を案内しまた講員の代参の役割を果たす御師も発達,江戸に近い富士吉田は御師の町として栄えていた。

 このような富士講や伝統的富士信仰の大きな変容を強制したのは,明治元年の神仏分離令でありそれによる排仏毀釈の運動であった。富士山および富士信仰に対する排仏毀釈運動はとくに駿河口側に著しく,明治7年には山内仏像除去の大掃除が執行され,また山内の仏教により命名された地名の変更も強制されていた。すなわち文珠嶽が三島嶽に,薬師嶽が久須志嶽に,阿弥陀窪が片瀬戸とそれが例であった。こうしたことを契機にして富士信仰は衰退し,今日富士登山はリクリエーション化してしまっている。