●富士講 ふじこう
アジア 日本 AD
江戸時代に発生した富士山を信仰し年々富士登山を行う民間宗教。元祖角行藤仏(かくぎょうとうぶつ)は修験者であるが,1560年(永禄3)富士山西麓の人穴洞窟を住居として80年,富士登山128度,富士山の神を“仙元大日”(せんげんだいにち)と感得して,新規の富士信仰の一派を立て教義・戒律・唱文を定めて1645年(正保3)洞中に死す。弟子らは江戸に移って布教を続ける。食行身禄(じきぎょうみろく)は角行の流れを汲む富士行者であるが,1687年(貞享4)入信以来日に二度の水垢離を怠らず,年々の登山も45度,会う人ごとに仙元大菩薩の教えを説く熱心な行者であった。1733年(享保18)江戸の町に米騒動が起こる。身禄は,民を飢えさせた幕府の政治に反発し,世直し祈願のため富士山七合五勺の烏帽子岩の岩窟に籠り31日の断食行を行い死ぬ。これによって身禄の名は世に表れ弟子たちによって身禄派富士信仰が広まる。1800年代初頭(文化〜文政)ころには“江戸八百八講”と謳われる隆盛を迎え,関東一円に広がっていく。幕府は,講の団結力と拡大性に恐れを抱き,1775年(安永4)から1842年(嘉永2)にかけて,町奉行所から7回にわたって信仰禁止の町触れを出すが効果はなかった。第二次世界大戦中の都市空襲戦災によって都市部の住民層に大きな新旧交代が行われたため,都市部の講は信徒が激減して衰退したが農漁村部の講は健在である。〔参考文献〕岩科小一郎『富士講の歴史』1983,名著出版