●武家法 ぶけほう
アジア 日本 AD
律令が行われなくなり武家が台頭してくると,武家の大なるものは自分の方針や命令処分をしてきたものをまとめるに至った。これを武家法という。【武士の二つの型】武士は武を「芸能」とする職能人。いわゆる職人の座的結合=集団で,「弓箭の道」「弓馬の芸」などを修める「道々の輩」の一種にすぎなかった。これは,鎌倉幕府の法律書のなかの『沙汰未練書』に,〈名主・庄官・下司・公文・田所・惣追捕使以下職人〉とあるところを見てもわかるように,その職人が武士であることを規定したものと考えられる。その意味で西国・畿内武士の場合はこのような職人の座的結合に近かった。それに対し,東国は職よりもっと強く主従関係を槓桿とする惣領制的結合であったから,同じ武士でもかなり内容を異にするところがあった。
【武家法の成立】公家に対し弓矢を業とするもので,なかには侍と従僕とがいる。侍とは騎芸を主とするのに対し従僕はただ従うものである。前者は御家人,その他非御家人,のち新加御家人という。後者は郎党・郎等(郎従・所従・家人・若党)であって,騎馬の出来ないものである。このような社会に一つの武家法の基本をつくったのが北条泰時の定めた関東側成敗式目(貞永式目)である。それは1232年(貞永1)成立した51カ条の成文法である。御家人である地頭や守護の職務とか権限・所領の所務のことなど広い範囲にわたるが,所領との関係が主で土地百姓を対象としているものはない。式目は公家などにかかわるものは少ない。家の法のようなところがあり道徳法的意味をもっている。そして時代の変化に対応して,新編追加・式目新編追加・新式目・貞応弘安式目・御成敗式目追加・侍所沙汰編,また追加を加え,近衛本式目追加などが作成される。室町時代になっても貞永式目追加の形式をとっている。建武以来の追加をまとめ,政所壁書・侍所沙汰編・武政軌範などをつくりあげている。戦国時代になると大名が室町幕府法より独立して分国法を形成し,かつ貞永式目を手本としている。ここに至ると,家臣のみでなく領国民をも対象とするものである。その後江戸時代になっても貞永式目はつねに武家諸法度にも大きくかかわっている。
【貞永式目の位置】律令法は,慣習法中心に公家法(公家新制)をつくるとともに,今一方には荘園を中心に本所法をつくった。それとともにそれとは別に武士の間に武家法をつくって,武士および武家領に施行している。そのためか〈武家法は人間関係では平安朝時代後半期において武人の間に成立した。道理を中心とする慣習を受け継いだが,物的関係すなわち所領関係では武家法の出発点は荘園法にあったといってよい〉(石井良助『日本法制史概要』)とあるように,武家法は荘園法の上に立っていると述べている。御成敗式目の成立(貞永1,1231)は北条泰時が中心となり,石田康連・斉藤浄円らの法律をよく知っている人を使って武家慣習を調査し,公法として制定を意図し式目・目録をつくりあげている。そして式目第23条の「不易の法」と認識している。先例を原則化し,右大将家の例を継承し,律令解釈は法の支配を確立し,さらに年紀法(証拠法上から見ると時効法)を成立させている。また第51条には「問状の御教書を帯び,狼籍を致すこと」を禁じている。訴状が受理されると被告に陳状の提出を求める問状の御教書が出るのが「定例」である。ところがそれを手中にした原告がその威力を借りて実力行使に出ると,これは不当で罪に当たる。今後は訴状の内容を吟味し不当の訴えに対して問状御教書の発行はいっさい禁止することとしている。こうした事実を見ても,訴人を有頂点にさせ外形のみで権威を感じ,理非の淵奥を求めるための当事者主義・文書主義を主軸とする裁判に対し,武士が民衆にかなり法意識においてズレをもっていた。
【法に任せての論理】中世文書を開いてみるとよく〈法に任せて〉〈御法の如く〉とか〈法に違犯して〉〈法を破り〉とある。ここで言う法とは,おそらく公家法・本所法・幕府が制定した法(慣習法を含む)やその変形した規範をさすものと考えられる。したがって〈当所の習〉〈当所の法〉は慣習法と解され,「例」なども大布〈傍例に任せて〉の用語も使ったのである。また〈故実〉が強調されている。もちろんその法に理あることが求められていた。その理は法そのものではなくただ道理のおすところそのものであった。言い換えると正邪の判断する基準は道理に求められ,それが先例とか定法といって道理のあるところとされていた。そのくせ時を量りて制を設ける精神「量時立規」が生きていた。しかし相輪のほうは景迹の法によって裁いている。守益の理を守る立場に立ち,そしてできるだけ是非をおいて理非のみに立たず和談によって穏便に解決することが求められている。その後建武式目の政道のところにも〈時を量り制を設く〉と書き出している。それに参加した二階堂是円は御成敗式目立法の精神を生かすと言い,公法の伝統精神とも一致すると言っている。建武式目は室町幕府の根本法典となる。これは建武政権打倒後,足利尊氏が北九州から上京して制定したものである。17条であるのは聖徳太子の憲法十七条に倣ったと言われる。武家全盛の後を追うとも言い,徳は嘉政のもと,政は民を安んじること,万民の愁を休んじることにあると言っている。室町幕府法は鎌倉幕府法に倣い職制その他はすべて似ている。それはむしろ継承していると言ってよく,将軍のもとに管領・政所・問注所・侍所・評定衆が置かれている。ところが室町幕府はその基盤の守護大名の連合勢力の均衡の上に立っていたため,しだいにそれを抑制する力を失い幕府から離れるものが増えた。とくに国人等を抑えたり連合させたりした戦国大名が分国内の土地と人民を支配している。分国の総力を統一して富国強兵をはかるために,統治の基準となる法令を定めた分国法をつくる。これは従来のように支配者向きでないため,仮名書きのものや文章のはなはだやさしい表現のものが生まれ,かつ方言をそのままを使っているものも少なくない。もとはと言えば家法とも呼ばれたように,元来は一般民衆を対象としたものではなく,家中の秩序を守り家臣を取り締まるものであったが,一国一城の主を出す取り締まり令はそのまま国法と考えられ,そこには政治方針や刑事裁判に関すること,民事訴訟にかかわること,戦国大名領の経済政策,年貢のとりたて,あるいは軍事法規定まで含まれ,分国法によってそれぞれ内容が異なっている。分国法に見られる内容の相違としては,[1]先進地帯には六角氏の義治式目など民事規定が多く,[2]中間地帯には武田氏の信玄家法など軍事規定が多く,[3]辺境地帯は伊達氏の塵芥集などに代表される刑事規定に関するものが多い,三つの型がある。しかしこれが,そのまま江戸幕府の武家法に列ならないのはやはり分国法としての限界による。したがってその間の空白を埋めるものとして,織田・豊臣政権の機能があるがあまりまとまった武家法制を定めたことはなかった。しかし,1595年(文禄4)7月豊臣秀次謀反で多くの処刑があった。その権力を与えた武将も粛清蟄居を命じられた。そのあと秀吉は8月「御掟」5カ条と「御掟追加」9カ条を発布した。大名・侍・公家・門跡・寺社など全支配階級を対象としている。これが江戸幕府の制定した「禁中並公家諸法度」・「武家諸法度」・「諸士法度」・「寺社法度」制定の前提となった。これらを総称して「武家諸法度」という。豊臣政権下の豊臣大名には分国法の影響があったが,江戸幕府は右大将家以来の武家政治の正統を継ごうとし,鎌倉・室町幕府の制定法を「武家諸法度」に取り入れて,将軍権力として武家法の発達史上に正当に位置づけようと試みている。武家諸法度は以後,将軍の代替わりごとに改訂・公布され,諸大名を江戸城に集めて伝達・訓戒しているが,家光の寛永令が踏襲されるに至った。