●富嶽三十六景 ふがくさんじゅうろくけい
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本図は葛飾北斎(1760〜1849)の描いた代表的な風景版画。これは西洋版画の手法をとり入れ,遠近法の上に立つものである。この作品は戴斗改為一とした61歳時代のものである。これは富嶽三十六景と言っているが,その実46図から成る揃物である。1817年(文化14)刊の柳亭種彦の合巻「正本製」の奥付の広告によると〈此絵は富士のかたちその所によりて異なる事を示す。或は七里ケ浜にて見るかたち又は佃島より眺める景など総て一やうならざるを表し山水を習ふ者に便す。此ごとく近々彫刻すれば猶百にもあまるべし。三十六に限るにあらず〉とあることから,何枚と限って描いたものではない。落款を見ると[1]北斎改為一筆,[2]北斎為一筆,[3]前北斎為一筆との三種の落款がある。この研究によると文政10〜天保4年の間に刊行されている。この画は一般に裏富士を描いた十枚のものである。富士は富士講が盛んでまた富士を描く画も多くなってきていた。そうした時代の動きとかかわらぬことはない。しかしこの富士は武者絵の富士ではないし歴史絵の富士でない。全くと言ってよいほど富士を純粋な自然景観として描き出そうとしたものである。この版画は,自然の状態から幻想の世界に至るまで角度を変えて描き出そうと努め,信仰の山富士山を町や街道・仕事場・湖や海・田・田園の人間の日常生活と結びつけ,明暗のある世界を描写している。すべてを人間の眼でとらえようとしていること,人間の登場しないものはわずかに六景だけ,しかし人間のたたずまいは感じさせている。たとえばその代表的な「凱風快晴」や「山下白雨」のごとき無人の風景が,人間の眼でもって描かれているというのは,自然をみつめる確かな眼,自然へ肉迫しその美を探求せんとする沸々とした意欲・情熱の所産のためである。そこには単なる感情移入を許さぬ抽象された構想力さえ見出す。そして安藤広重の絵本『富士三十六景』の風景画と異なり人間臭さが強い。たとえば信州諏訪湖・上総の海路を見ていると,人間への関心が強く正確に人間の活動をこと細かに動作を描くなかで追求している。実に丹念というかこと細かな観察に基づいて描かれている。とくに『富嶽三十六景』のうちの「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」の二図を見ると,役者絵や美人画に対し風景画を自立させている。前者は富士を小さく扱いながら,波や舟の荒々しい動きと対比するなかで小さく描いた富士を見事に浮かび上がらせている。また「凱風快晴」に藍色の空と白い雲のなかに赤く染まった富士の峰を描いている。フランスの印象派に影響を与えたのは大胆な表現の誇張をもって印象強く人心に訴える手法によるものと考える。おそらく常人の考え及ばない構図は,北斎が生き生きとした力感を伝えるため,老いと闘う心がうつぼつとしていたことによる。
彼は「山下白雨」のなかで同じく雲と雷光の抽象的構成を試みているが,その反面決して人間嫌いであったのではない。彼は生き生きとして働く人間を好み,「尾州不二見原」「東都浅原本願寺」「遠江山中」「本所立川」「東海道金谷の不二」「江戸駿河町三井見世略図」を見ていると,働く人々の動作がよく描かれている。北斎は身近にいる人間を愛し続けたが,そのくせ時に人間の泥臭さを嫌っていた。何かに打ち込んで生きようとする意志を大事なものとしていた。それ故か為一としてはいつも人の手に染まらぬ世界を自らの構想力の転回で描き出したいと考え続け求め続けている。かかる強い人間関心をもつ北斎が,しだいに風景画から幻想的主題の世界へ入っていったのは,おそらく画狂老人として生きる以外に生きようがなかったからであろう。その意味で,『富嶽三十六景』は人生と自然とを美しく共存させた葛飾北斎の傑作の一つといってよい。
〔参考文献〕瀬本慎一『画狂人北斎』1973,講談社