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●普墺戦争 ふおうせんそう

ヨーロッパ オーストリア共和国 AD1866 プロイセン王国

 プロイセンとオーストリアの戦争(1866),ドイツ統一の主導権を決定した戦争。

【背景】ウィーン会議(1814〜15)以後のドイツは,ドイツ連邦の名のもとに,事実上の独立主権国家群である35君主国と4自由市より構成されていた。それは,ゆるい国家連合以上のものではなかった。このようなドイツ連邦を再編・統一することが,ドイツ統一の課題であった。この課題は,資本主義の発展とあいまって1860年代には切迫した問題となっていた。ところで,この統一のための方式については,[1]大ドイツ主義,[2]小ドイツ主義,[3]7,000万帝国構想の三つに大別される流れがあった。[2]はプロイセン中心の統一思想であり,[3]はオーストリア政府の主張であった。2大雄邦,プロイセンとオーストリアの主導権争いが激化してくると,大ドイツ主義は片隅に押しやられていった。こうしたなかで,その他の中小諸邦国は,いずれの側につくのか,二者択一を迫られた。

ビスマルクの画策】プロイセン首相ビスマルクは,戦争にあたってフランスを,少なくとも好意的中立の立場におくために,ナポレオン3世とビアリッツで会談した。またイタリアとも参戦に応ずるという協定を結んだ。さらに下院にはドイツ進歩党を先頭に自由主義者が多数を占め,政府の軍制改革に反対していたが,ビスマルクは,軍備増強を強行した。他方,参謀総長モルトケは,鉄道,電信,電話の軍事的利用を含めて,軍事作戦計画を練りあげていた。その作戦計画の基本は分進合撃であった。これは複数のルートを通って進撃し,決戦場にて合流し,敵軍を集中攻撃する作戦であった。ドイツ連邦内の中小諸邦国は二つに分裂した。北ドイツ19小邦のうち,17小邦は,ビスマルクの懐柔と恫喝によって,プロイセン側に立った。中部・南部の諸邦は,結局オーストリア側に立った。こうしてプロイセン,オーストリア2大雄邦の対決は,戦争へと突入するにいたった。

【戦争の経過と結果】1866年6月15日,プロイセン軍は,オーストリア側に立ったザクセンなど中部ドイツ諸邦国にむけて進撃し,これを撃破した。バイエルンなど南ドイツ軍も,戦いの準備がほとんどできていなかった。こうして主力軍による決戦をむかえた。プロイセン軍は決戦場ケーニヒグレーツにむけて,三方から分進し,これをオーストリア=ザクセン連合軍が迎撃した。(ケーニヒグレーツの戦い)この戦いにおけるプロイセン軍の勝利が事態を決定的にした。ところが,この勝利の2日後の7月5日,ナポレオン3世の介入がおこった。彼は予想外に早くプロイセンが勝利したのに驚き,オーストリアが完敗しないうちに,講和を締結させようとした。この提言をめぐって,プロイセンの政府・軍首脳部のなかには,動揺と対立が生じたが,ビスマルクは一定の領土拡大を条件に,講和に応じる決断をした。こうして7月26日,休戦が実現した。最終的には8月23日のプラハの平和条約によって結着がつけられたのであるが,これに先立ってプロイセンは着々と布石していた。すでに開戦直前の6月10日,親プロイセン諸邦国に新たな同盟の結成を呼びかけ,開戦と同時に,現存のドイツ連邦の解体を宣言していた。そしてプラハ平和条約の締結前に(8月18日),北ドイツの17小邦といわゆる「8月同盟」を結んだ。これは新しい連邦国家の創設を約したものであった。8月23日のプラハ平和条約では,[1]ドイツ連邦の解散,[2]ハノーファークール=ヘッセン,ナッサウ,フランクフルト=アム=マイン,シュレスヴィヒ=ホルシュタインのプロイセンへの併合,[3]プロイセン中心に,北部・中部諸邦を統合した連邦国家の創設,[4]オーストリアはこれに加わらない,以上が協定された。こうして1867年7月1日,ライン川以北に,22邦国を統合した北ドイツ連邦が発足した。そして,これに非加盟の南ドイツ3邦とは攻守同盟が結ばれた。

〔参考文献〕望田幸男『ドイツ統一戦争』1979,教育社

林健太郎「ドイツの統一と戦争」『プロイセン・ドイツ史研究』1977,東京大学出版会