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●賦役 ふえき

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 賦役とは一般的には,政治支配者に対する被支配者の労働給付として考えられるが,これについては世界各地それぞれの歴史背景をもって個々にその性格をとらえてゆく必要がある。ここでは,とくにアジア地域の中国・インド・オリエントにおける賦役について概観する。

【中国】賦役ということばは,明代および清代初期にあっては,中国歴代王朝の税制にとって2大支柱たる田賦(土地税)と力役とを意味するものである。しかし賦役とは元来,賦も役もどちらも力役をさすことばであり,土地税はむしろ税とか租ということばで示されるのが通常であった。とくに賦は,兵役義務という意味をその原義に含んでおり,漢代において人頭税として7〜56歳の男女に対して課せられる税金を口賦(こうふ)・算賦(さんぷ)と呼称していたのは,更賦(こうふ)と同様にこれらが起源的には兵役免除の代償としての意味があったことを示唆し,徭役(ようえき)金納化の性格をもつものであった。また中国の力役(徭役)は,唐の両税法が施行される以前においては,貧富による差別はなく各人に平等に負担されるものであった。唐代における均田制施行と表裏一体の関係にあった租庸調制のうち,庸(力役負担)は丁男(成年男子)1人当たり1年のうち20日の役を規定しているが,それは絹帛などの布類で物納していた。ところが,8世紀になって両税法が制定されると資産を標準とした課税方式に変わり,それに伴って力役もまたその資産によって一律でなくなった。そしてやがて土地税も従来の租ということばでなく,田に税を賦(わりあて)るという意味で田賦と呼ばれるようになった。明清時代の賦役が田賦と力役をさすようになったのはこうした背景をもつ。その後清の雍正年間(1723〜35)に地丁銀制が成立し,人頭税たる丁銀土地税のなかに組み入れられると,賦役は単に土地税だけをさすようになった。

【インド】賦役は,古くサンスクリット語でヴィシュティと呼ばれている。古代におけるその実態については,必ずしも明らかではないが,さまざまな面にわたって賦役が使用されていたことは間違いない。賦役を免除されるのは,4姓(カースト)のうちバラモン階級に限定されていた。中世以降においても,賦役はヴェート,またはベーガールと呼ばれ,国家事業だけではなく,しばしば地方官や豪族によって私用され,過酷な賦役負担がおもに下層賤民・手工業者・農民にかかっていた。こうした過重な賦役徴用は,イギリスによる植民地支配以後も,諸藩王国の王制廃止まで続けられた。

【オリエント】ナイル河流域やメソポタミアなどに形成される古代オリエント社会の存立が,その大規模な治水,灌漑組織の管理,維持にかかっていたことは周知のごとくであるが,このことは必然的にこの社会の賦役に,共同体としての社会作業という面を強くもたせる結果となった。初期においては,灌漑作業をはじめとしてその神殿領(土地はすべて神の所有とされる)における耕作なども各共同体自由民の奉仕作業であったが,それが階級分化の進行に伴い,土地が神殿領・王領・私有地に分化してくると,しだいにかつての自由民の共同奉仕はここに賦役化されてゆくことになる。ただし,神殿領・王領地の大部分はやがて小作化されたり,奴隷,賃労働者によって耕作されるようになり,その農耕労働における賦役は減少していった。これに対して,治水・灌漑作業は,全面的に賦役に依存するかたちとなり,国家はその統一支配を敢行し労働力の配分を管理していた。この点ナイル河流域では定期的氾濫がきわめて穏やかで,あまり治水の必要がないこともあり,メソポタミアに比べて賦役に頼る度合が少なくなっている。ただし,王領地・神殿領における農耕労働は,反対にメソポタミアに比べて賦役によることがはるかに多かったことが指摘されている。〔参考文献〕宮崎市定『古代支那賦税制度』史林18−2〜4,1933

和田清『支那地方自治発達史』1939,中華民国法制研究会

M.ウェーバー,渡辺金一・弓削達訳『古代社会経済史』1959,東洋経済新報社