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●風土 ふうど

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 ある土地の気候,気象,地質,地味,地形,生態,景観などの自然環境を,人間とのかかわりにおいて歴史的・統一的に把握する概念であるが,人間の生活は大自然に抱かれているという感情のもとで成立する主観的なもので,その観点に立てば,その土地に生まれ育った人間の精神形成に与件として多大の影響を及ぼすことになる。ある地域に特有の自然環境に根ざすとみなされる疾患を風土病と呼ぶのも,風土が人間に影響を与えるということが前提されているゆえんである。類語に風水,水土などがあるが,いずれにせよ人間の環境としての自然を地,水,火,風ととらえた古代の自然観を踏まえているものである。ところで風土は国とか大陸といった大きな地域にもひろがりうるし,また,一つの国内でも東西南北,都道府県,郡,市町村といった形で小さな地域,さらにはそれらの地域のなかでも海沿い,内陸,山間部などに分けてみることもできる。その場合,国あるいは都道府県・郡・市町村のような行政区画が風土を決めるものではないが,ある地域の風土が国家の成立や行政区画の設定の際に主要な要因とされてきたことは歴史的に確認しうるところである。

【風土の認識の変遷】風土ということばのおこりはもとより古代中国である。語源的には,大きな鳥の羽ばたきを表した鳳から転じて,大地の吐く息として折々に虫類を孵化させる働きをする風と地中から芽生えた草木をかたどった土との合したもので,もとは季節の循環に対応するあらゆる生命を包みこむ環境を意味した。やがて土地ごとに異なる水土風気が人間の精神形成に影響を及ぼすという認識のもとに地域の特徴を示すことばへと変化してくる。その契機は他国・他民族と接触したことによって自国・自民族を認識したときにあるとされるが,それが明瞭になるのは,前1世紀,中国最初の歴史書として司馬遷がまとめた『史記』の国土の記述において,自国を世界の中央に位置する文化国家として誇る中華思想を打ち出したときであった。歴史記述における中華思想の伝統は,1世紀に班固が著した『漢書』や3世紀の陳寿の撰になる『魏志』や5世紀に范曄が編んだ『後漢書』に引き継がれたが,その際,周辺民族たる“夷狄”の居住する地域の地誌的扱いを中国本土に関するそれと対比してみることによって,風土ということばの当時における使われ方がおのずと明らかになる。なお,『後漢書』には皇帝が地方官を招集し,各自の任地の風土について尋ねたという記事があるが,それは支配者が統治上の必要から各地域の特質やそこに住む人間の様子を知ることを欲したことを伝えている。このような国家の自覚を踏まえた風土の認識は,律令政府によって日本にも導入され,713年(和銅6)に諸国に郡郷の名の由来,産物,地味,地形,伝承などを記録して報告すべきことが命じられている。風土記の撰進がそれであるが,自然環境のみならず,産物や伝承が対象として加えられているところに,統治に必要な事項を調査するという側面とともに,風土とは人間の存在やその特質の理解に不可欠な要件としての地域の自然環境であるとの認識が成立していたことがうかがえる。なお,このときの風土記のうち,完本として現存するのは『出雲国風土記』だけであるが,常陸,播磨,豊後,肥前のものが一部伝存しているほか,多くの国々の風土記逸文が各種の本に引用されているのをみれば,当時,いちおう全国的に編集が行われたとして差支えあるまい。以上は古風土記とも呼ばれるが,それは近世になって風土記と題する書物がいくつもつくられたからで,幕府や藩の編さんした大がかりなものが多い。それらは支配者の政治的な意図にもとづくものであるが,それぞれの土地にしみついた人間生活を記録する試みは古風土記以来の日本の地誌の特色をなしている。また,1701年(元禄11)に出た『人国記』は風土記の変型といえようが,とくに地域の風土と人間の特質とのつながりが強調されている点が注目される。1700年(元禄13)刊行の西川如見の『日本水土考』や1894年(明治27)の志賀重昂の『日本風景論』はそれぞれの時期に得られる情報を駆使しながら,世界のなかでの日本の自然と人間の特質とを論じている。さらに,近代に入って新聞・雑誌が風土記,人国記と称する企画を連載することが多く,また,しばしば表題にこれらの文字を入れた著書も見受けられるが,それらが読者に人気があるのは,読み物として工夫されているだけでなく,それぞれの読者の属する地域の御国自慢をくすぐる筆致で書かれているためであることは否めない。

【風土と俗信】古代中国では風土の認識が国家の自覚のなかで発達し,史書における地誌的記述となって現れたが,それと並行して,あるいは,それより早く前3世紀後半には,地は天によって支配されるということから,自然環境の変化が人間の禍福に深い関係があるとする考えが体系化され,陰陽五行や易の思想と結合して前1世紀から後1世紀にかけて,人間の運命に関する各種の預言法が登場した。その一つとして都城,村落,寺観,住宅,墳墓などを構築するにあたって,山川・水流の様子を観じて天地の二気が完全に調和する適地を選ぶことを目的とした風水説がある。地誌における風土の認識が各地域を比較しながら,それぞれの地域に住む人間の特質と自然環境とのかかわりをみようとしたものであるのに対し,ある地域に建設される構築物の災禍を避け,幸福を招くための地相を考えるというきわめて実践的な内容をもつもので,環境論の先駆ということもできる。なお,風水と同じ意味で,堪輿(かんよ)ということばが用いられたが,堪は天道,輿は地道のこと。また,地理ということばも,本来,これらと同義であった。風水説では,方位を青竜(東),朱雀(南),白虎(西),玄武(北)という動物で表す四つに分け,その地域における風の吹き抜ける方向や水流の位置をはかるわけである。この風水説が日本にも入ってきたことは,7世紀末から8世紀初頭にかけての彩色壁画古墳として話題を呼んだ高松塚の北壁に玄武,東壁に青竜,西壁に白虎が描かれていることにうかがわれるし,710年(和銅3)に都とされた平城京や794年(延暦13)に完成した平安京がいずれも朱雀大路をもっていることに,内裏が南面していることとあわせて風水説の採用を知ることができる。ただ,構築物をつくるにあたって自然環境を重視するという,しごく当然の常識に発した風水説が,自然界の万物はすべて陰陽の二気によって生じ,木・火は陽,金・水は陰,土は中間であり,これら五行の変化でもって自然界の災異や人間界の吉凶を説明しようとする陰陽五行説と結びつくとき,呪術的側面が強まり,11世紀中ごろになると末法段階に入った仏教の無常観と相まって人間の自然に対する無力を嘆ずる風潮が増すなかで,さまざまな迷信の発生を促し,貴族の儀式や生活を拘束したことは当時の文学作品をみれば明らかであるし,そうしたことはまた民衆の生活を束縛することとなった。今日でも,風水説などを意識しなくとも,住宅建築などにあたって,方角や着土の日取りなど,さまざまな縁起がかつがれるところにその根強さをみることができる。

【西洋における風土の認識】風土にあたることばは英語では climate,フランス語では climat,ドイツ語では Klima である。これを再び日本語に訳すと気候になり,風土より狭い意味になるが,前6世紀ごろの古代ギリシアにおいて,神話的な見方から解放され,自然を土,水,空気,火の四つの要素からなるものとみなし,その人間社会とのかかわりを論じ,気候帯と民族性との関係を解明しようとしたイオニア学派の哲学者には明らかに風土の認識がある。そして,それは前4〜5世紀の哲学者ヒポクラテスや前4世紀の哲学者アリストテレスに継承されたが,人間の行動や歴史には自然環境の生理的・直接的な影響があるとみる彼らは,それなりに合理的であると同時に,北方の人間は勇敢であっても愚かで政治的支配力に欠け,南方の人間は豊かであっても臆病で忍従と奴隷の境遇から脱しようとしないのに対し,その中間にあって気候の変化に富むギリシアの人間のみが聡明で武勇に優れ,優秀な政治組織をもって世界を統一する能力があるというような偏見を抱いていた。しかし,このように風土が人間に影響するという考えは,カトリック神学が学問の世界を支配した中世のヨーロッパでは姿をひそめ,ルネサンス以後,16世紀後半のフランスの政治学者ジャン=ボーダンが述べた「肥沃な土地では人間は努力することが少なく,またやせた土地では人間は緊張を強いられるから,それにより住民の能力,技術,文化に差異が生ずる」という主張のなかに復活する。ただ,ボーダンの場合,古代の占星術から自由ではなく,地に対する天の優位を認め,温帯には木星,寒帯には火星,熱帯には土星が君臨し支配しているという観点から気候帯ごとに特有の政治のあり方を論じているところに限界があった。その後,18世紀前半のフランスの政治学者シャルル=ルイ=ド=スゴンダ=バロン=ド=ラ,ブレード=エ=ド=モンテスキューは,意識的に宗教的観念を排除しながら,地域の気候と国家・国民性のあいだの密接な関係を論じ,「寒国の住民は青年のごとく大胆で勇気があるが,暖国の住民は老人のごとく臆病である」と述べているが,このあたりはイオニア学派以来の素朴な地理的環境論につながるもので,19世紀半ばのイギリスの歴史家ヘンリー=トーマス=バックルの「人間に最も強力な作用を及ぼす物的要素のなかに自然がある」という見解もこの線上にあるといえる。

【人文地理学と風土の把握】こうした伝統的な地理的環境論に対し,もっと科学的に風土と人間あるいは地域と人間との関係を考察しようとする試みは,近代地理学として確立された人文地理学によって推進されることになる。19世紀後半のドイツの地理学者カール=リッターがその先駆とみなされているが,彼は“統一的全体としての世界の自然”と人間との相互依存関係をはっきりと認めながら,人間の創造者たる神の意志を忘れてはならないとしているところに,なお中世神学的思考の尾を引いていた。これに対し,ほぼ同じ時期にドイツのフリードリッヒ=ラッツェルは,人文地理学の最も重要な課題は,自然と人間およびその歴史との関係の環境論的研究であるとし,その発展につくした。彼はチャールス=ダーウィンの進化論の影響を受けていたこともあって,人間の歴史を他の生物の進化史と同様に解釈しようとする傾向が強く,自然の力を機械的に解釈したことから,環境決定論という批判を受けることにつながった。しかし,彼の影響は大きく,その環境決定論的要素は,20世紀前半のアメリカの地理学者エレン=チャーチル=センプルやエルズワース=ハンティントンに継承された。この間,ラッツェルの環境決定論に対する批判は,まず自然と人間とは等位関係にあり,相互に作用しあうものとみるドイツの経済地理学者たちによってなされたが,ついでフランスのポール=ヴィダル=ド=ラ=ブラシュが,自然環境は人間に特定の条件を提供して,因果的に一定の方向づけをなすものではなしに,むしろ人間に自由な選択の可能性を与えるものであるとする環境可能論を唱え,自然が風土に働きかけて文化・社会を形成する人間の能動的役割,自然に対する人間の主体性を強調することで環境決定論に対峙した。なお,ブラシュの立場はリュシアン=ポール=ヴィクトル=フェーブルの歴史地理学のなかに引き継がれ,今日の人文地理学の基本的理論の一つになっているが,自由な選択といってもそれは限定された可能性であるし,自然環境からの影響も無視するものでもないというところには論理的矛盾があるのは否めない。

【マルクス主義と風土】ラッツェルの環境決定論が一世を風靡していたとき,それを最初に批判した経済地理学者の相互作用論をも批判したのが,ドイツのマルクス主義者カール=アウグスト=ウィットフォーゲルであるが,彼は地理学における因果律追究のためには,自然と人間との関係の理解にあたって中間項として生産関係の分析を取り入れる必要があるとし,地理的唯物論と名づけられた。しかし,マルクス主義においては,風土などの自然環境によって諸民族の歴史を説明する地理的唯物論では,社会の急速な変化や発展を自然の緩慢な変化によっては説明しつくせないことから,物質的な性格をもつ生産力および生産関係の発展を通じて,人間社会の発展を解明することに基礎をおいた史的唯物論が確立されたことにより地理的唯物論という表現はほとんど否定的な意味でしか用いられないことになる。ロシアにおけるマルクス主義の父と呼ばれるゲオルギー=ヴァレンチノヴィチ=プレハーノフが地理的環境を過大評価したとの批判を受けるのもそのゆえである。また,弁証法抜きの機械論的唯物論としてしばしば批判され,ソヴィエトの政治的指導者となりながらヨシフ=ヴィサリオノヴィチ=スターリンによって粛清されたニコライ=イヴァノヴィチ=ブハーリンが“社会と自然のあいだの均衡”を説いたところにもその傾向が認められる。しかし,マルクス主義の歴史観においても,人間とその社会的環境との交互作用をまったく否定しているわけではない。カール=マルクス自身,1858年の著作『資本制生産に先行する諸形態』の本源的な共同社会が変容し,アジア的形態・古典古代的形態・ゲルマン的形態といった類型が生み出されることを説いたくだりにおいて,「さまざまの外的,気候的,地理的,物理的などの諸条件のみならず,その特殊の自然的素質など−その種族的性格−にもかかるであろう」ことに注目しているし,1881年の「ヴェラ=イヴァーノヴォ=ザスーリチへの手紙」では共同体を解体し,「生産者の生産手段からの徹底的な分離」を進め,資本制的生産様式を成立させる「運動の歴史的不可避性」は「明瞭に西ヨーロッパの諸国に限定される」と述べている。なお,さきに環境決定論を批判したウィットフォーゲルは1933年,アメリカに亡命後,地理的環境重視の方法をいっそう前面に打ち出し,水利の歴史的決定的作用を重視する「水の理論」にもとづいて著した1949年の『東洋的専制主義』では環境決定論との区別はもはやつけることができなくなっている。

【哲学と風土】人文地理学の基本的理論である環境可能論では,自然・風土を人間と対立的な等位関係にあるものと位置づけるが,そのような考えの萌芽は,生涯の前半を地理学者として送った18世紀の哲学者イマヌエル=カントにみられる。彼は人間の慣習や性格を風土に結びつけて研究する道徳地理学を重視,「人間の正しい理解のためにはこうした地理学的方法によらねばならぬ」とした。また,その門下で18世紀後半に活躍したヨハン=ゴットフリート=フォン=ヘルダーは,人間を自然の頂点としながら,人間の精神構造が風土に左右されることに着目し,感覚,想像力,実践的な理解,感情や衝動,幸福などの地域独自の風土との結びつきを例証したが,その際,彼にとって重要なのは風土を自然科学的な認識の対象として扱うのではなく,風土の精神をとらえることによって人間の思惟力感受力全体の風土学を確立することであった。19世紀初頭のドイツの哲学者ゲオルク=ヴィルヘルム=フリードリッヒ=ヘーゲルは,人間の歴史の解釈に人間の精神と風土の関係を取り入れようとし,『歴史哲学』の序論において,[1]広い荒地や平地をもった水のない高原,[2]大河の貫流し灌漑する河谷の平野,過渡の地帯,[3]海と直接に関係する海岸の地方,という三つの自然類型をあげ,それを世界史の発展段階と結びつけて考察しているが,そこでは風土は歴史を解釈する上での一つの手段にすぎなかった。1894年(明治27)に内村鑑三の著した『地人論』は,このヘーゲルの思想にもとづく日本最初の人文地理学書である。20世紀に入ってからの科学の発展は,風土と人間の心との関係を実験的に証明することを可能にしたが,その代表的なものとして,ドイツの哲学者ウィリー=ヘルパハの1923年の著作『風土心理学』があり,P.フィクラーの1947年の著作『宗教地理学の基本的諸問題』にもその手法が取り入れられている。ところで,風土を単なる物的な自然環境としてではなく,主体的な人間存在の構造的契機として取り上げたのは和辻哲郎である。人間の存在構造をもっぱら時間性としてとらえ,空間性をほとんど問題にしなかったドイツの哲学者マルティン=ハイデッカーに不満をもった和辻は,主体的な人間存在の構造的契機としての空間性を風土の形で問題にし,1935年に名著『風土』を著している。その意図するところは,「人間学的考察」という副題に端的に示されているが,和辻は,そこにおいて風土を[1]モンスーン(南・東アジア地域),[2]砂漠(西アジア地域),[3]牧場(西ヨーロッパ地域),そして,1949年刊行の『倫理学』下巻ではこれに[4]ステップ(ロシア・モンゴル地域),[5]アメリカを加えてあわせて五つの類型に分け,それぞれの地域における人間と文化のあり方を把握しようとし,人間は風土において自己を了解するという観点から衣食住にかかわる生活様式はもちろん,文芸や宗教のなかにもこれらの類型を探ろうとした。また,和辻と同じころ,ドイツの地理学者 P.H.シュミットは,現象の“空間的関係”を任務とする地理学に“自然と人間”の関係についての哲学的考察を導入し,従来,地理学者の立ち入らなかった人間を主体とする領域を開拓した『哲学的地理学』を1939年に上梓している。

【現代における風土の問題】生産力の低い段階において,人間に対する自然の力は強大であり,それ自身,生物として自然の一部をなす人間は自然に支配されるところが大きかった。しかし,生産力の発展につれ,人間は自然からの自立を意識するなかで,人間は環境によって決定されるのではなしに,環境は人間に対する可能性を提供するものであるという考え方が主流を占めるようになってきた。風土のなかで人間を主体的な存在と位置づける哲学的思想が登場してくる背景もこうしたところにあったが,人間はそれを自らの進歩とみなしたのである。こうしたことから,人間は単なる自然の利用者としてではなしに,自然の征服者として行動するようになり,続々と開発された科学技術を駆使し,利用可能とされた自然を資源として,無限に増大する欲望を満足させようとし,さらには近代国家が総合開発,自然改造などと称して,大規模な自然の改変を推進した。このような人間が生物たることを忘れた行動の結果は,風土を単に景観的に変貌させただけでなく,自然の生態系を破壊することによって,人間の生存それ自体に深刻かつ重大な問題をひきおこすことになった。さまざまな公害の発生がそれであり,環境科学や生態学(エコロジー)が強い危機意識をもってこうした状況に警鐘を鳴らしている。そして,ともすれば,社会科学になじまないものとみなされ,文学との関連で説かれてきた風土の問題について社会科学の立場からの見直しも進められている。飯沼二郎が和辻の風土論を静態的なものと批判して動態的なそれを志向したり,玉城哲が風土の概念規定よりも具体的な風土の形成論理の解明を重視したのもその現れといえる。そうしたなかで日本列島における文化周圏の現象を明らかにした上で,さらに基層となる文化の南から北への波及の痕跡に注目することによって日本民俗学を確立した柳田国男や大地の表面と大気の底面との接触するところを風土とみなす独自の観点から「風土産業」の開発を提唱した三沢勝衛の業績が改めて注目される必要があろう。

〔参考文献〕和辻哲郎『風土』1935,岩波書店

和辻哲郎『倫理学』下,1949,岩波書店

別枝篤彦『人間と地域』1965,古今書院

梅棹忠夫『文明の生態史観』1967,中央公論社

飯沼二郎『風土と歴史』1970,岩波書店

玉城哲・旗手勲『風土』1976,平凡社

玉城哲『風土の経済学』1976,新評論

谷川健一編『風土学ことはじめ』1984,雄山閣