●フィンランド
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正式国名フィンランド共和国面積34万7,000平方km。人口約480万人。首都ヘルシンキ。共和国で現大統領はマウノ=コイヴィスト。国名の“スオミ”とはフィンランド語の“湖沼”に由来するという説が有力である。スカンディナヴィア半島の東に位置するフィンランドは,北西部でスウェーデン,北部でノルウェー,東部でソ連と国境を接し,南はフィンランド湾,西はボスニア湾とバルト海に面する。バルト海上のオーランド諸島(Aland)を領有している。国土の大部分は森林におおわれ,約5万5,000にのぼる湖や沼が点在し,その総面積は全土の9%に達する。気候は総じて冬厳しい大陸性を示すが,地域的には北部が極地気候であるのに対し,バルト海に面した南西部は幾分温暖である。バルト海は通常3〜4カ月氷結する。人種はほかの北欧4カ国とは異なるフィン=ウゴール語族のフィン人。言語はフィンランド語である。ただしフィンランドには7%程度スウェーデン語を話す人々がおり,公用語はフィンランド語とスウェーデン語である。そのほかフィンランド北部のラップランドには少数のサメク人(ラップ人)がおり,サメク語(ラップ語)を使用している。
【初期の歴史】フィンランド人は,おそらく民族大移動期に現在のフィンランド領内に移住してきたと考えられる。1000年ころには国家はまだ形成されてはいなかったが,出土した貨幣からアラビア商人やヨーロッパ商人とフィンランド人が通商を行っていたことは明らかである。1050年ころから西からはスウェーデン,東からはノブゴロドが,フィンランドのキリスト教化と支配権の確立をめざして戦いを始めた。1150年代のスウェーデン王エリック9世(聖王)のフィンランドへの十字軍,実際にはノブゴロド勢力の駆逐を目的とする遠征により,1世紀に及ぶスウェーデンのフィンランド征服事業が開始された。1209年,トゥルク(スウェーデン名,オーボ)に最初の司教が就任した。征服された地方は力づくでキリスト教化され,新たにスウェーデン人も植民した。1323年,イェーテボリの和約でカレリア地方を2分するロシアとの国境が定められた。さらにフィンランドはスウェーデンの一地方として,1362年,スウェーデンの国王選挙に関与できる権利を与えられた。1400年代末からのロシアとの国境紛争やカルマル連合末期の抗争で国土は荒廃した。カルマル連合成立(1397)からその崩壊(1523)まで,スウェーデン同様フィンランドも,デンマークの支配下に置かれた。グスタフ=ヴァーサ治世(1523〜60)に,スウェーデンと平行してフィンランドでも宗教改革が実施された。
【スウェーデンの大公国時代】1581年,スウェーデンの大公国となり,グスタフ2世アドルフ(在位1611〜32)の中央集権化政策によってますますスウェーデンへの従属を強めたフィンランドでは,16,17世紀を通じてスウェーデン語の使用も顕著となり,政治面のみならず,文化面でもスウェーデン化がいっそう促進された。1570〜95年のロシアとスウェーデンの戦争後,スウューデンはエストニアとナルヴァを奪い,またフィンランドの東部国境は北氷洋に達した。さらに1617年のストルボヴァの和議でカレリア地方の大部分がフィンランド領となった。だが北方戦争の結果,1721年のニスタッド条約(ウウシカウプンキ)で,スウェーデンは西カレリア地方をロシアに割譲させられ,1741〜43年の戦争でも,フィンランド南東部を失った。このようにたび重なる戦争と敗北は,フィンランドのスウェーデンに対する不信感を高める結果となり,グスタフ3世(1771〜92)の啓蒙専制主義下で分離独立運動が活発化した。1807年,ティルジット条約でロシア皇帝アレクサンドル1世はフィンランド占領に着手し,1809年,スウェーデンとロシアとのフレデリックスハムン(ハミナ)の条約で,フィンランドはロシアに割譲され,ロシアの大公国になった。
【ロシアの大公国時代】この時代の初期においては制度上,一応フィンランドには自治が保障されていた。なお1812年,首都はトゥルクからロシアに近いヘルシンキに移転された。19世紀前半の民族的ロマン主義の潮流のなかで,フィンランドでもフィンランド語を公用語とすべきことなど,民族意識の高揚が叫ばれたが,その反面このような動きはフィンランドの自治を危険にさらす結果ともなった。1899年,ニコライ2世による“二月宣言”はフィンランドの自治を少なからず制限するものであったし,フィンランド総督ボブリコフのもと(1898〜1904)では,フィンランドに対するロシア化政策はその頂点に達した。しかしボブリコフが1904年,フィンランドの一青年に暗殺されたこと,さらに翌年日露戦争でロシアが敗北し,ロシア国内で革命騒動がおこったこと。またフィンランドでも大ストライキが発生したことなどから,ロシア化政策は緩和され,部分的にせよ自治が復活し,1906年,身分制議会から一院制普選国会への変革が行われた。そして翌年初の総選挙が実施され,フィンランドの社会民主党が第1党になった。しかし1908年,再度ロシア化政策が復活され,1917年のロシア革命時まで続いた。1917年12月,フィンランドは独立を宣言し,ソヴィエト政権もこれを承認した。
【共和国時代】1918年1月,ブルジョワ諸政党と革命勢力とのあいだで内戦が勃発した。ブルジョワ諸政党の軍を指揮するマンネルヘイム将軍は4月,ドイツの支援も受けて,1月に樹立された革命政権が組織したフィンランドの赤衛軍を破り,内戦を終わらせた。それと同時に革命政権も崩壊した。1920年代,経済は順当な発展を遂げたものの,社会階級間の対立は激しいものがあった。大恐慌下の1929年,ボスニア東岸地方の小邑ラプアでフィンランドの共産党と農民が衝突したのを契機に,ファシズム的な“ラプア運動”が全国に波及した。テロ行為が横行し,1931年,共産党が非合法化されるなどしたが,1933年,ラプア運動が引きおこした反乱が鎮圧されるなど,この運動はしだいに国民の支持を失い,下火になっていった。1939年9月,第二次世界大戦が勃発すると,ほかの北欧諸国同様直ちに中立を宣言したが,ソ連はフィンランドに相互援助条約の締結を提案し,これが拒否されると,前年来の領土要求を大幅に拡大した領土交換要求をもち出した。しかしフィンランド政府がこれも拒否すると,ソ連は1939年11月末,軍事行動をおこし,いわゆる“冬戦争”が始まった。初期の段階では圧倒的に優勢なソ連軍に対し,フィンランド軍は善戦したが敗れ,翌年3月11日付のモスクワ講和条約で工業都市ヴィープリを含むカレリア地峡の領土の割譲,ハンコ岬へのソ連軍の進駐などを容認させられた。その後のソ連のさまざまな圧力やバルト3国のソ連領への編入という事態に,ソ連の脅威を感じたフィンランドは,1941年,ドイツの対ソ侵攻を契機に2度目の対ソ戦争いわゆる“継続戦争”を開始するにいたった。しかしドイツ軍のスターリングラードでの敗北と,その後のソ連軍の反撃により,フィンランドは1944年,休戦条約の締結を余儀なくされた。この条約で1940年の国境が確定するとともに,ペッツアモのソ連への割譲,ポルツカラ岬のソ連海軍基地化,3億ドルの賠償が約された。そして1947年のパリ講和条約でこの休戦条約が調印され,フィンランドは正式に主権国家として国際社会に復帰した。戦後フィンランドは一貫してソ連との友好関係の維持を国是とするパーシキヴィ路線を歩むことになったが,これは自国の内政・外交に大幅な制約を加える結果をもたらしている。東西対立が激化するなかで,フィンランドはマーシャル=プラン受け入れを拒否する一方,1948年6月,ソ連と“友好・協力・相互援助条約”を締結した。他方中立の堅持にもつとめ,1956年,北欧会議に,1961年,ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)にも参加し,西側との関係強化をもはかった。1955年,加盟した国際連合に対しては,ほかの北欧諸国同様積極的に貢献しており,とくに国連の平和維持活動への協力はめざましいものがある。国内的にはソ連領に編入された地域からの40万人以上の難民や,2度の対ソ戦での多数の傷病軍人問題では,大胆な土地政策の実施で解決をはかり,さらに巨額の対ソ賠償支払いを完了した1952年には,第15回オリンピックを開催するまでに復興した。1950年代後半には工業発展も急速に進行し,1970年代には社会福祉国家体制を実現させた。
【宗教】1050年ころから,スウェーデンとノブゴロドがフィンランドのキリスト教化をめざして,東西から浸透しはじめた。1150年代,スウェーデン王エリック9世(聖王)がノブゴロド勢力を駆逐すべく,イングランド人司教ヘンリーを伴い十字軍を催して以降,フィンランドは徐々にスウェーデンの支配下に組み込まれるとともに,キリスト教化も進行した。このような十字軍は1249年,ビルイエル=ヤールのもとで,1293年,クヌットソンのもとでも行われた。1209年にはトゥルクに最初の司教が就任した。フィンランドの宗教改革はスウェーデンのそれとほぼ平行して実施された。またこの時期ルターの弟子でトゥルク司教であったアグリコラ(1509〜57)はフィンランド語訳『新約聖書』を刊行した(1548)。
現在は大多数が福音ルーテル派に属する。
【文学】フィンランド最初の印刷物は1548年のアグリコラによるフィンランド語訳『新約聖書』であった。これ以降約300年間,フィンランド国民文学はスウェーデンの支配下で成立をみなかった。しかし19世紀前半の民族ロマン主義の影響を受けたフィンランドでは,民族的覚醒が叫ばれ,それゆえフィンランド語の公用語化への動きも活発化した。こうした状況下で,1831年,知識人によってフィンランド文学協会が設立された。このメンバーのひとりで医師でもあった若き言語学者レンロート(1802〜84)は,東部カレリア地方に生きつづける口承の詩を採集・復原し,1835年,民族的叙事詩『カレヴァラ』という題で発表し,さらに1849年には増補されて50章からなる『新カレヴァラ』を刊行した。フィンランド語で書かれた優れた文化的遺産である『カレヴァラ』は,近代フィンランド文学の出発点を画すのみならず,フィンランド人の民族精神を高揚させ,独立運動の精神的支柱ともなり,さらに芸術・学問の領域にもはかり知れない影響を与えた。同時代,ルーネベリもスウェーデン語で多くの愛国詩を書いた。キヴィ(1834〜72)は戯曲や小説の分野で活躍したフィンランド最初の国民的作家である。19世紀後半になると文学はリアリズム傾向を強めたが,この時期の優れた作家としてアホ(1861〜1921)があげられよう。19世紀末には新ロマン主義が主流を占め,詩人ではレイノやマンニネンや小説家ではリンナンコスキらが輩出した。独立後の最大の作家はシランペー(1888〜1964)で,彼は1918年の内戦を舞台とした作品を発表し,1939年,ノーベル賞を授与された。さらに『ムーミン』の作者である女流作家ヤンソンは日本でもよく知られている。
【学術・文化など】文科では,モンゴル語や朝鮮語研究に業績を残し,さらに日本の民俗学の発表にも寄与したラムステッド(1873〜1950)がいる。彼は1919年,初代駐日公使となり,勲二等瑞宝章をおくられた。自然科学ではノーベル化学賞授賞者のヴィルタネンが著名である。1640年,フィンランド最初の大学がスウェーデンのクリスティナ女王によって首都のトゥルクに創設された。しかし1812年,首都がヘルシンキに移ったことから,大学も1827年に移転し,ヘルシンキ大学として再出発した。絵画では,ガッレン=カッレラ(1865〜1931)が代表的人物であり,『カレヴァラ』から画題を採った優れた多くの作品を残した。また交響詩『フィンランディア』をはじめ多くの交響曲や協奏曲を発表し,国民を鼓舞したシベリウス(1865〜1957)は,フィンランドが生んだ偉大な作曲家である。数々の世界記録を樹立するとともに,3回のオリンピックで計9個の金メダルを獲得した長距離走者のヌルミ(1897〜1973)は,ヘルシンキ=オリンピックでは最終聖火ランナーをもつとめた国民的英雄であった。
〔参考文献〕角田文衛編『北欧史』1970,山川出版社
百瀬宏『北欧現代史』1980,山川出版社
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