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●フィリピン

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【総説】フィリピン群島は,バシー海峡,フィリピン海,セレベス海,南シナ海に囲まれた西太平洋上の約7,100の島からなる。

 国名はピリピノ語で Republikang Pilipinas,首都はルソン島のメトロ,マニラ,総人口は5,196万人(1983)である。フィリピンの国名は,1521年のマゼラン来航以来スペインから送られた遠征隊の1人ロペス=デ=ヴィラボスが,当時の皇太子(のちフィリペ II 世)のフィリップにちなんでこの地をラス=フェリピナスと呼んだことに由来している。群島のうち北部にあり首都を擁するルソン島が最も大きく(104,687平方km),南部のミンダナオ島(94,630平方km)がこれに次ぎ,この二つを含めた11の大島で総面積の90%以上を占める。残りの島々のうち4,000以上が無名の小島や岩礁である。フィリピン群島は一般に険しい山地が海に迫り,川は急流で海岸平野は狭く,また環太平洋構造線が通過しているため地盤変動や火山活動が盛んである。最高峰であるミンダナオ島のアポ山(標高2,954m)やルソン島のマヨン山(標高2,462m)は美しい成層火山として名高い。このほか休火山も含めると全諸島で100近い火山があり,地震も多い。おもな河川にはルソン島のカガヤン,パンパンガ,アグノ,ミンダナオ島のミンダナオ,プランギなどの各河川があり,とくにカガヤン川流域には幅約80kmの肥沃な平野が展開している。海岸線は複雑で,マニラ湾をはじめ港として利用されている湾も多い。また,ミンダナオ島の東にあるフィリピン海溝には世界屈指の深い海淵がある。気候は全諸島が熱帯に属するため一般に高温多湿であり,大別すると7月から10月が雨期,12月から5月が乾期となるが,地域的な差異も著しい。高度差による気候の違いも大きく,海岸の低地の年平均気温が26℃以上なのに比べ,避暑地として有名なルソン島のバギオ(標高約1,500m)では約18℃と温帯並みである。また北部・中部は秋に台風に襲われることがある。

【歴史】フィリピンの基層文化は,紀元前4,5世紀から紀元後15,16世紀にかけて,断続的に渡来したマレー系民族によって形成されたと考えられている。これらの人々は小船に乗って移動し,その乗員集団を単位として定住した。この集団は小船を意味するバランガイという名称で呼ばれ,ダトゥ(首長)を中心として30戸から100戸程度の家族で構成された親族集団であった。バランガイにはダトゥのほかに自由民ティマガと二つの従属階級アリピン=ナママハイ,アリピン=サギギリルがあり,階級間の移動も可能であった。ダトゥたる条件は,出自よりも本人の武勇や才覚であり,ダトゥが無能なら人々は別のバランガイに移ることもできた。こうした集団によって人々は焼畑耕作を行いながら移動していた。ところが15,16世紀になると南中国や南方諸地域との交易が活発となり,ホロ島やマニラなど交易港の周辺では階層分化などの社会変動が起こり始めた。また同じころにイスラーム教が南部のスルー諸島からミンダナオ島にかけて普及し,スルタンを中心とする部族国家が形成された。このようにフィリピン社会が変動期を迎えるなかで,1521年に世界一周途上のマゼランが来航し,ヨーロッパとの接触が始まった。首長たちにスペインヘの帰順を勧めたマゼランはマクタン島の首長ラプラプに殺されたが,その後も相次いでスペインの遠征隊が派遣され,第5次遠征隊のレガスピらは,1565年から諸島の征服を開始して,1571年にはマニラを首都とする統治体制を作りあげた。スペインによる支配機構はマニラの総督府を中心として,その下に州(アルカディーア),町(プエブロ),村(バリオまたはバランガイ)という3段階の行政区画が設けられた。末端支配者である町長や村長にはフィリピン人有力者が任命されたが,同時にほぼ町単位で教会組織が設置されてスペイン人教区司祭が行政の監督役となっていた。住民に対しては町単位で貢税・強制労働・強制売り渡しなどの負担が課せられた。また,スペインの植民地経済を支えたのは,ガレオン船を使って中国とメキシコを結ぶ中継貿易の生み出す莫大な利益だった。貿易の発展に伴って中国人移民も増大し,17世紀には2万人余りにのぼった。この間,支配体制は必ずしも安定していたわけではなく,16世紀以来,モロと呼ばれた南部イスラーム教徒の強い抵抗が続いていたし,17世紀以降はマニラの中国人が不当な抑圧に対してたびたび反乱を起こした。ルソン島やビサヤ諸島でも,1744年から85年間も続いたダゴホイの反乱を初め100以上の反乱が続いていた。また1756年にヨーロッパで七年戦争が始まると,敵国イギリスはインドから遠征隊を派遣して1762年から1764年までマニラを占領した。やがてスペイン支配終焉への道を開いたのは,1815年のガレオン貿易廃止に象徴される自由貿易体制への移行だった。貿易額は1850年代から急増し,イギリス,アメリカを相手国として綿製品などの工業製品を輸入し,砂糖,アバカ麻,タバコなど一次産品を輸出する典型的な植民地貿易が展開された。そして輸出向商品作物の生産のためにアシエンダとよばれる大規模土地所有制度が成立し,その下で小作人や農業労働者からの搾取が一層激しくなったためスペイン支配への不満の声が高まった。同時に,自由主義思想の流入や教育制度の整備によってスペインに批判的な知識人層も生み出された。そして1882年からスペイン支配を批判する言論活動として“プロパガンダ運動”が開始され,このなかから,富農出身で医学博士号とスペイン留学の経験をもつホセ=リサールが独立運動の啓蒙家として登場したのである。リサールは,1887年出版の『ノリ=メ=タンヘレ』をはじめとする小説を通してスペイン支配の不当性を訴え,さらに1892年にはフィリピン民族同盟を結成したが,ただちに流刑となって1896年に銃殺された。しかしリサールの処刑後,彼に代表される有産知識人層と労働者・小作人層との連帯は強化された。後者の階層を代表する革命家がアンドレス=ボニファシオである。ボニファシオらは1892年,マニラで秘密結社カティプーナン(人民の子)を結成し,1896年に武装蜂起を決行してフィリピン革命の火ぶたを切った。ところが,革命が全土に拡大するなかで,カビテ町長エミリオ=アギナルドら地方有力者層とボニファシオら下層民とのあいだに軋轢が生じてきた。結局,革命の主導権はアギナルドに移ってボニファシオは処刑され,同時にスペインとの和約が進められた。やがて1898年に米西戦争が始まってアメリカ軍がフィリピンを攻撃すると,アギナルドはアメリカと結んで再びスペインへの抵抗を開始し,6月にフィリピン独立を宣言した。しかしアメリカはこれを認めず,8月にマニラを占領してただちに全土に軍政を敷き,12月にスペインからフィリピン統治権を奪取した。一方アギナルドらの革命政府はマロロスに首都を置いて全土の解放と組織化を進め,1899年1月に憲法を制定してフィリピン共和国の樹立を宣言した。こうして両者の対立は深まり,1899年2月,ついに戦火が開かれた。アメリカは圧倒的な軍事力を背景として優位に立ち,3月には第1次フィリピン委員会を設置して占領政策の立案を始め,さらに1901年,アギナルドの投降を契機に民政への移行を実現し,1902年には平定作戦の完了を宣言した。アメリカのフィリピン統治の中心に置かれたのはフィリピン委員会で,第2次委員会の委員長タフトが初代民政長官に任命された。また,平定作戦と並行して町単位の地方自治制度が確立され,さらに1907年にフィリピン議会が開設されて,それらの担い手であるフィリピン人エリート層を支配機構に組み込むことに成功した。アメリカ支配の下ではスペイン時代と異なり,初めから英語による公教育制度が整備され,初等教育が山岳地帯まで普及して民衆の生活や思考様式をアメリカナイズしていった。経済面では1909年に米比間の関税を撤廃して輸出入とも全面的にアメリカに依存する構造を作りあげ,モノカルチャー化を進めた。農村の土地改革を目ざした1902年の土地登記法や1913年の地籍法は十分な成果をあげずに大土地所有制が温存され,さらにスペインから獲得した公有地も制限付ながらアメリカ資本や輸出向生産を担う地主に払い下げられた。このようにアメリカの支配が強化されるなかで,フィリピン議会では即時独立を主張する国民党が多数を占め,一方アメリカでも独立容認の民主党が政権についたために,1916年にジョーンズ法(フィリピン自治法)が制定されて将来の独立が明確にされた。しかしアメリカで1921年に植民地維持を主張する共和党政権が復活し,フィリピン議会でも独立の主張とは裏腹に輸出品市場を失なうことを恐れる地主階級が多数を占めていたので,独立への動きは停滞したままだった。ところが1929年に世界恐慌が勃発すると,安価なフィリピン農産物の流入を嫌う米国農民や,労働者流入を恐れる米国の労働組合などのあいだから植民地領有に反対する声が高まってきた。そしてついに1934年にタイディングズ=マクダフィ法(フィリピン独立法)によって,10年間の独立準備期間(コモンウェルス期)の後にフィリピンの独立を認めることが決定された。翌1935年にはコモンウェルス政府が発足し,大統領に国民党のマニュエル=ケソンが就任した。同時に1933年にはベニグノ=ラモスが反米・反国民党を掲げてサクダル党を結成した。また1920年代以来,コロルム講の反乱などメシアニズム的農民反乱が頻発し,近代的労働組合運動も発展して1930年にはフィリピン共産党が設立された。こうしてフィリピン社会が変動期を迎えようとしたとき,1941年に太平洋戦争が始まり,日本軍がフィリピン侵攻作戦を展開して翌1942年には全土に軍政を敷いた。大統領ケソンと副大統領オスメーニャはアメリカへ逃れて亡命政府を樹立したが,残された大部分のコモンウェルス指導者はフィリピン行政委員会の下で日本軍政への協力を余儀なくされた。さらに日本軍は DANAS(隣組制度)や KALIBAPI(新生フィリピン奉仕団)を組織して宣伝と治安維持の基盤とした。また1943年には,ホセ=ラウレルを大統領とするフィリピン共和国を形式的に独立させて侵略の正当化を図ったが,支配の実態は変わらなかった。軍政下の経済はアメリカと分断されて破綻をきたし,食料不足などが起こり,日本軍の残虐行為も頻発したため,フィリピン民衆は日本への反感を強めた。そして抗日ゲリラ組織として中部ルソンに基盤をもつフクバラハップ抗日人民軍)と連合軍の支援を受けた USAFFE(米極東軍)ゲリラが結成され,各地で活動を展開した。1944年にはアメリカ軍の反攻も本格化し,ついに日本軍は敗退した。こうして,ようやく1946年7月4日,コモンウェルス期の終了とともにフィリピン共和国が誕生した。初代大統領にはアメリカの後押しによって対日協力者マニュエル=ロハスが就任した。独立と同時にフィリピン通商法(ベル通商法)が締結されてアメリカへの経済的従属の継続が決まり,さらに1947年の軍事基地協定・軍事援助協定と1951年の相互防衛条約で軍事的にもアメリカの支配下におかれることが取り決められた。こうした政権に対抗して,抗日戦を戦いぬいたフクバラハップが共産党の指導の下で反政府活動を強め,農村への影響力を拡大していった。これに対して第2代大統領キリノの下で国防長官となったラモン=マグサイサイは,アメリカの支援を受けてフクバラハップ掃討作戦を展開し,1950年代初めにこれを壊滅状態に追い込んだ。この功績によってマグサイサイは第3代大統領となり,反政府運動の原因である農村問題の解決を図って土地改革に着手したが,失敗した。その後1960年代半ば以降,首都圏では KM(民族主義青年同盟)を中心とする反米闘争が,農村部では NPA(新人民軍)による反政府ゲリラが活発に展開された。こうしたなかで,1965年に第6代大統領となったフェルディナンド=マルコスは,武力による弾圧を強める一方で開発政策と上からの社会改革を強行し,再選後の1972年には全土に戒厳令を布告して独裁色を強めていった。戒厳令はその後1981年に解除されたが,南部イスラーム教徒の MNLF(モロ民族解放戦線)の活動,開発政策に伴なう対外債務の累積,さらに1983年の政敵ベニグノ=アキノ射殺事件など多くの問題が残されている。

【人々】フィリピン人は人種からいうと,ネグリート族を除いてはモンゴロイドの東南アジア系に属している。フィリピン人の祖先は,北および東アジアから少数の集団として何世紀かにわたりフィリピンへ移住したと考えられている。フィリピン人の祖先が中国大陸との陸橋を通り移住したという説や,低身長で縮毛,茶褐色の肌をもつネグリート族がフィリピンの最古の住民であるという説はいまでは否定されている。1962年,パラワン島のタボン洞窟の発見で,3万5000年以前にはフィリピンに人類が住んでいたと推定されるが,それがネグリート族という確証は何もない。また,中国人,スペイン人,アメリカ人などの血が混じりメスティーソと呼ばれる混血を生み出した。人口は1980年現在,全国で約4800万人を数え,毎年2.6%の人口増加をみている。そのために全人口の72%が29歳以下の青年層で,13%が45歳以上で占められている。また,全人口の12%にあたる590万人がマニラ首都圏に集中している。宗教別にみると,1970年の調査では全人口の93%がキリスト教徒である。さらにくわしくみれば,85%がローマ=カトリック,3%がプロテスタント,そして残りの5%はローマ=カトリックから逸脱したフィリピン独特の新興宗教であるフィリピン独立教会とイグレシア=ニ=クリストである。キリスト教徒はほとんどが平地フィリピン人で占められているが,ここで彼らの価値観や日常生活をみてみると,彼らにとって広い意味で家族といえば,ふつう第3いとこまで含まれるが,カトリック儀礼に沿った代父・代母の出現を含めると,家族の輪はさらにひろがる。フィリピン社会は父系・母系のいずれかに片寄らない双系的または非単系社会なので,夫婦の関係はきわめて平等である。公的には夫をたてることもあるが,家庭内の重要な決定事項は妻の声も十分に尊重される。子供の家庭内の教育は,両親に従順に,そして目上・目下の区別がつねに強調される。また家族への忠誠も重要視され,家族のために犠牲が強要されることもある。たとえば,長子が弟妹の学業のために,自分の学業ひいては将来を犠牲にすることはしばしば見受けられる。そのかわり,弟妹の長子に対する恩義は一生変わることはない。そのような関係は家族以外の人間関係にもみられ,何か世話になるとその礼は何らかの形で返さなければならない。もしそれを怠るようなことがあれば,社会成員として尊敬に値しない恥知らずな行為とみなされる。この国のイスラーム教徒の人口は5%で,そのほとんどがミンダナオ島の南部およびスルー諸島に集中している。イスラーム教徒はさらに十数種の部族に分かれているが,おもな部族として8部族があげられる。スルー諸島,とくにホロ島に住むタオスグ族は最初にイスラームに帰依したグループである。マラナオ族はミンダナオ島のラオス湖付近に住み,イスラームを奉じた最後のグループである。そのほか,マギンダナオ族,サマル族,ヤッカン族,バジャオ族,サギル族らがある。イスラーム教徒のあいだに伝わる口承物語によると,イスラームは14世紀末,アラブ商人によってスルー諸島のホロ島に最初にもたらされ,ミンダナオ島には15世紀後半に伝わったといわれている。全人口の2%を占めるいわゆる文化的少数民族は約60部族あるが,稲作の定着生活を営むルソン島北部山岳地帯に住むボントック族やイフガオ族から狩猟移住生活を営むネグリート族(各地分散),または全成員数が24人(1971現在)で,石器時代の生活水準を営むコタバト州に住むタサダイ族などもいる。

【言語】フィリピンのことばは,オストロネシア語またはマラヨ=ポリネシア語に属し,人口の9割が8大言語(タガログ・セブアーノ・イロカーノ・ビコール・パンパンゴ・パンガシナン・ヒリガイノン・フライまたはサマール=レイテ)のどれかを話す。1937年にはタガログ語が国語のベースになり,1940年からは公立学校で,いっせいに教えられ,同時に公用語としても正式に認められた。1960年の時点で,国語を理解する人口は全国民の50%を占めるようになったが,映画・ラジオ・テレビまたは学校教育のおかげで,国語理解率は急速に増えつつある。今日では,公用語は国語をはじめ,英語,スペイン語の三つである。インドのサンスクリットに似た文字が入ってきたのは10〜14世紀ごろとされている。スペイン人の記録から察すると,成人男女はその文字に通じ,商売上の貸借の記録やメッセージ,詩などを樹皮,竹筒,バナナの葉などに書きつけていた。そのように保存のきかない物である上に,スペインの植民地化のためあらゆる土着の文化遺産が破壊され,現在では残っていない。ただ外国の影響を受けることのなかった文化的少数民族のなかにのみ,土着文字を使用しているグループがいるだけである。

【宗教】フィリピン土着の宗教は精霊崇拝(アニミズム)の信仰であった。ここに14世紀後半以降イスラームが伝えられ,さらにスペインによる侵略が始まる16世紀後半以降,キリスト教が伝えられた。現在,ローマ=カトリックの信徒が全人口の8割以上を占め,その他の宗派を加えたキリスト教徒は全人口の9割以上にのぼって東南アジア唯一のキリスト教国となっている。このほかイスラーム教徒が数パーセントいるが,伝統的な土着宗教の信者はきわめて少ない。フィリピンのキリスト教はタガログ族,イロカノ族などの多数民族に多く,南部を除く諸島に分布している。教会や礼拝堂も教多く建てられ,人々は聖像を飾り十字架を身につけ,様々な祭礼も行われるなど,キリスト教信仰は生活のなかに深く根付いている。しかしその信仰内容は,キリスト像や聖人像に触れてその神秘的な力を受けようとする行為など,伝統的な精霊崇拝と共存する側面もみられる。さらに19世紀後半以降,非西欧世界の各地でカリスマ的指導者を軸としてキリストの再来を望み抑圧からの解放を求める“千年王国運動”が展開されたが,フィリピンでもスペイン,アメリカの支配に抵抗するこうした運動がしばしば起こった。とくに,スペインへの抵抗の英雄ホセ=リサールをキリストの化身と考える教団が,20世紀初頭以来各地で設立された。またスペイン人修道士に支配されたカトリック教会からの分離を求めて1902年にフィリピン独立教会が創立され,1914年にはカトリックを批判する教義をもつイグレシア=ニ=クリスト(キリストの教会)が生まれて,現在でも合わせて全人口の数パーセントの信徒をもつ。一方,イスラームはミンダナオ島西南部,パラワン島南部,スールー諸島など南部地方に分布している。伝来当時はマニラなどにもイスラーム社会が形成されたが,フィリピンを支配したスペイン人は,かつて自国を侵略した北アフリカのムーア人(モロ)と同じイスラーム教徒を敵視し,しばしばその壊滅作戦を行った。しかし南部では激しい抵抗運動が続いて結局これを破ることはできなかった。こうした歴史的背景もあって,現在もモロ解放民族戦線(MNLF)を中心としてイスラーム教徒の自治権獲得のためのゲリラ活動が続いている。またフィリピンのイスラームは,前述のキリスト教と同様に伝統的な精霊崇拝と結びつく要素をもつ。さらに,伝統的な精霊崇拝は現在では山地民のあいだにのみ残存しており,その内容は多様だが,おおむね多神教で霊魂の不滅と死後の世界の存在を信じ,儀礼を通じて人と人,人と自然の交わりを求める。

【政治】政治形態はアメリカの植民地であったことを反映して,上・下両院からなる議会,裁判所,政府の三権分立で,4年ごとの直接選挙で選ばれる大統領制をとっている。独立以降,キリノ,マグサイサイ,ガルシア,マカパガルと大統領が続いたが,1965年にマルコス大統領が選ばれ,1969年に再選され,今日にいたっている。一方,フィリピンの政治状況は,1960年末から著しい緊迫化の道をたどっていた。独立は名目のみで,いぜんとしてアメリカに従属した経済のもとでフィリピン経済は伸び悩み,とくに学卒者の失業が高まっていた。また同時に,アメリカに同調するフィリピンのヴェトナム参戦をめぐり,マニラをはじめ部市部では反政府・反米のデモに大揺れに揺れていた。南部のイスラーム教徒圏でも,経済問題に関して強い不満を抱き,反政府運動がひろがりつつあった。このような状態を背景にマルコス大統領は,1972年9月に戒厳令を布告し,翌年1月には国民投票を施行して新憲法を批准し,大統領は首相を兼ねることによって三選禁止の条項を切り抜けた。同時に反体制活動家,政敵を投獄し,新聞・ラジオ・テレビなどのマス=メディアを統制した。戒厳令施行の大義名分は「新社会」の建設にあった。まず大地主・大財閥などの特権的グループを解体し,農地改革,公務員の綱紀粛正が行われた。しかし,農業不安はいぜんとして未解決のまま,また汚職なども結局は追放できず,マルコスの退陣を求める声や戒厳令廃止の声が高まってきた。やがて1981年1月,ローマ法王来比の直前,戒厳令は解除された。マルコス大統領は19年にも及び政権を維持してきたが,彼に反対する勢力は以下の三つに大きく分けることができる。[1]戒厳令以前より反マルコスの立場をとってきた政治家のリーダーシップによる「ユニドー」,[2]ミンダナオ島の自治権拡大を望むイスラーム教徒を代表するモロ解放戦線,[3]非合法のフィリピン共産党と新人民軍である。そのほか労働運動,農民運動,カトリック教会,マニラを中心とした知識層などの圧力もみのがせない。1972年を100とすれば,首都マニラの消費者物価指数は1979年で256にもなり,農地改革の行詰まりで農村部の貧困問題も根本解決がなされていない。マルコス大統領退陣要求の運動は,1983年8月,政敵アキノの空港射殺を機に,さらに盛り上がりをみせている。アキノ暗殺後,政情不安を反映して海外からの資金調達が困難となり,金融不安が高まっている。ペソも切り下げが続き,原料・部品の輸入もとだえがちになり,工場も閉鎖を余儀なくされ失業者の数も増えている。この状態をいかに切り抜けるかがこの国のかかえている緊急の問題である。

【文学・芸術】フィリピンの伝統社会における文学としては口承による叙事詩があり,今日でもイフガオ地方の『フドフド』,イロカノ地方の『ラム=アン』,パナイ島の『ヒニラオッド』,カリンガ地方の『ウラリム』などの英雄物語が伝えられている。マラナオ族の叙事詩『マハラジャ=ラワナ』にはインド文化の影響もみられる。また儀式や生活の中で数多くの歌や踊りがみられ,楽器は東南アジア各地の伝統的楽器と共通する物が多い。スペインによる支配とともに文学作品の印刷が始まったが,はじめは宗教関係のものに限られ,ギャスパー=アキノ=デ=ベレンらがタガログ語でパションとよばれるキリスト受難の詩を描き(1704),さらにこれを宗教劇にしたセナクロも上演された。19世紀になると宗教以外の書物も印刷が許され,フランシスコ=バルタサーの『プロランテとラウラ』(1838)などタガログ語の詩が出版されたが,これはスペイン圧政下のフィリピンの姿を象徴的に描いたものであった。また,スペイン人とともに西洋楽器も伝来して民衆のあいだに広く流行した。19世紀の後半になると近代小説の形式をもつ文学があらわれるが,その代表作がホセ=リサールの『ノリ=メ=タンヘレ』(1887)と『エル=フィリブステリスモ』(1889)で,これらの作品はスペイン植民者の圧政とこれに従属するフィリピン上流社会の醜さを鋭く描き出した。しかし,それがスペイン語で書かれていたために,影響力は上流知識人のあいだに限られ,民衆のあいだに革命運動を拡げたのは政治結社カティプーナンの創立者アンドレス=ボニファシオの『最後のわかれ』などのタガログ語文学だった。また,ボニファシオらは民話を劇化しながらスペイン支配の不当性を説いた。やがてアメリカ支配下では英語を使った教育に力が入れられたが,同時に一応の言論・出版の自由が保障されたために多くの文学作品が生み出された。アメリカ統治初期の代表作にはファウスティーノ=アギラー『消えゆく光』(1907)や新聞に連載されたロペ=サントス『夜明けの光』(1904)などアメリカを批判したタガログ語小説がある。しかし1920年代にはアメリカの教育を受けて英語を使う新しい世代の文学者が主流となり,タガログ語文学は大衆雑誌のなかに見られるにすぎなくなってしまった。1942年に日本軍による占領が行われると,今度は英語の使用が排除されてタガログ語文学が奨励された。このように支配者の言語政策が揺れ動くなかで,フィリピンの文学者の多くは使用する言語にかかわりなくフィリピン人の生活を描くことにつとめ,また象徴的な形式で支配者批判をすることも忘れなかった。一方,アメリカ統治初期の演劇活動として,サルスエラというスペイン風オペラが土着化したものと,象徴ドラマという近代ドラマが演じられた。前者の代表作がセヴェリノ=レイエスの『傷つかず』(1902),後者の代表作がオーレリオ=トレンティーノ『昨日・今日・明日』(1903)であり,ともにアメリカ批判が盛り込まれている。しかし弾圧やアメリカ映画の流行に押されて,これらの演劇は衰退していった。1946年にフィリピン共和国が独立した後も,文学,音楽,映画をはじめ生活全般にわたってアメリカ文化の影響は著しかった。日本の圧政を描いたステヴァン=ハヴェリャーナの名作『暁を見ずに』(1947)も英語を用いてアメリカで出版された。しかし,1960年代にヴェトナム戦争が拡大するなかで反米感情を強めた青年たちは,民族主義青年同盟(KM)を組織して“文化革命”を起こし,タガログ語(ピリピーノ)文学や民族音楽・民族芸能をマス=メディアに取り入れる運動を展開した。タガログ語作家のなかにも大衆文学から脱して民衆生活をリアリズムの手法で描くロヘリオ=シーカット,エドガルド=レイエスらの“砂漠の水”グループ,さらに1970年代にはよりラディカルに変革を迫るリカルド=リー,ウィルフレッド=ヴィルトゥシオらの“嵐”グループが生まれて,タガログ文学の隆盛をもたらした。

〔参考文献〕池端雪浦・生田滋『東南アジア現代史 II』世界現代史,1977,山川出版社

綾部恒雄・永積昭『もっと知りたい東南アジア』1984,弘文堂

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