●フイヤン派 フイヤンは
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フランス革命期の党派。1790年3月から6月にかけ,立憲派とよばれるシェイエス,ミラボー,ラファイエットのグループが,国王拒否権問題のしこりから三頭派と対立して憲法友の会(ジャコバン協会)から脱退したが,次いで1791年7月,バルナーヴ,デュポール,ラメット兄弟の三頭派が,国王のヴァレンヌ逃亡事件への対応をめぐって民主派と対立し脱退した。この二つのグループが合同し,テュイルリー宮殿近くのフイヤン修道院に政治クラブをもったことからこの名がついた。1791年10月からの立法議会で260余議席を占めて右翼を形成し,沼沢派とよばれる最大多数派(350)を間にはさんで左翼のジャコバン派(当時はジロンド派が主)130数議席と対立した。憲法の中で王権の護持を中心に考え,革命の進行にともない民主化・急進化を抑えようとした。1791年2月頃までは,内閣を構成し,パリ県会当局を抑えていたが,ジロンド派の戦争挑発政策をくいとめられず,ド=レッサール外務大臣,ナルボンヌ陸軍大臣が告発され,6月に同派の内閣が再興されるが,近衛兵の解散,自治区への受動市民の参加など事態は深刻となった。ラファイエットはジャコバン協会を解散させようとして失敗,オーストリア軍に投降。宮廷との意志疎通も欠き,情勢への対応能力を失った。8月10日革命後は沈黙,シェイエスのように王政を見捨てた者は国民公会に席をしめたが,バイイ前市長,バルナーヴ・ラメット兄弟などは11月に処刑された。総裁政府発足後,再び活動をはじめ,ヴォーブランなどがクリーシー・クラブを創設。共和政体に順応しつつ合法的な形での立憲君主政の復活をねらったが蜂起直後,党員から反革命分子を出したのは,党を致命的にした。