●フィジー
大洋州 フィジー共和国 AD
南太平洋における独立国。南緯15度から22度,東経175度から西経177度にわたって散在する約320の島嶼で構成され,海域面積は129万平方km,陸地面積は1万8376平方kmであるが,陸地面積のなかではヴィチ=レヴ島が1万388平方km,ヴァヌア=レヴ島が5,538平方kmを占めている。人口66万3000人(1982推定)。首都はスヴァ。記録的には,1643年にオランダ航海者,アベル=タスマンが北部の島に来たのが白人による「発見」とされているが,それ以前にスペイン人航海者が来航したといわれる。次にこの諸島の南部を観測したのは,キャプテン=クックで1774年のことであった。19世紀に入ると白檀やナマコを目的とする白人商人,キリスト教伝導者が来航しはじめたが,当時のフィジーは,いくつかの部族連合のあいだで,戦闘が繰り返されていた。
しかし,東部ではトンガの勢力が進出して,ラウ諸島やタヴェウニ島には強力な国が成立し,また難波した欧米船の生残り乗組員から鉄砲の使用を習得した酋長が,次第に勢力を増大させていた。19世紀中ごろには,バパウ地方のラツ=サコンバウと,ヴァヌア=レヴ島付近のマアフ(トンガ人)の2大部族連合が台頭し,キリスト教に改宗したサコンバウが,フィジー東部の最高の酋長となった。
1858年にイギリスはフィジーに領事を任命したので,イギリスのフィジー領有が国際的に噂されたが,アメリカ人がサコンバウに損害賠償を要求した事件があり,南北戦争がおこらなかったら,フィジーはアメリカ領になる可能性があった。1871年にいたって,サコンバウは全フィジーの統一に成功し,君主制憲法を採択してフィジー国王となった。
しかし,政治の実権は数人の自人に握られ,議会と行政府は対立し,統一国家としての運営が不可能になったので,サコンバウはドイツの保護を求めたが,ドイツは拒否した。当時オーストラリアのイギリス人のあいだで,フィジー併合の世論が強まっていたが,1874年10月10日になって,サコンバウ王は領土をイギリスに割譲し,フィジーは正式にイギリス植民地となった。
オーストラリアの植民地精糖 CSR が,甘蔗プランテーションを開発したため,フィジーは砂糖に依存する経済構造をもつにいたった。しかし,原住民人口が減少の一途をたどっていたため,1879年からインドから契約労働者を導入し,一時は日本人労働者をも導入して,砂糖の生産を拡大した。その結果,フィジーに多くのインド人が住みつくにいたった。1940年代からフィジー人よりインド人が多くなり,1966年,センサスではフィジー人は,全人口の42%強にしかすぎなくなった。
フィジーの政治史は,フィジー人対インド人の問題に左右された。政党は,この2大人種別に結成され,伝統文化を維持して国家建設をすすめたいフィジー人と,近代化による各種権利の拡張を求めるインド人は,しばしば対立を繰り返した。
フィジーは,1970年10月10日に独立し,英国連邦,国際連合などに加盟している。
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