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●ファーティマ朝 ファーティマちょう

アフリカ チュニジア共和国 AD 

 初めチュニジア,のちにエジプトを中心に繁栄したイスマイル派の王朝(909〜1171)。第4代目正統カリフ・アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの血統を引くと称するウバイド=アッラーがその創始者である。イスマイル派運動の本拠地であるシリアのサラミーヤーにいたウバイドは,イエメンで成功したダーイー(布教師)アブー=アブド,アッラー=アル=シーイーを北アフリカに派遣した。シーイーは,ベルベル系クターマ族を味方とすることに成功した。そこでウバイドはパレスチナ,エジプトを経由して北アフリカに入った。909年,ウバイドはアグラブ朝を滅ぼし,910年にはマフディー(救世主)を称した。新興のファーティマ朝の周囲には,北アフリカ西部に勢力をもつゼナータ系ベルベル諸部族,フェズのイドリース朝などがあった。また宗教的には,スンナ派とハワーリジュ派が敵対関係にあった。このような状況のもとでファーティマ朝は,サハラ砂漠経由の金ルートを掌握し,実力を強大化しつつイスラーム世界中央への進出の機会をねらった。ウバイドのとき,東方への門戸としてアル=マフディーヤを建設し,第2代目カーイムのときと合わせて3回のエジプト遠征を行ったが,これらはいずれも失敗に終わった。969年,第4代目ムイッズは,将軍ジャウハルをエジプトに送った。イフシード朝のもとで疲弊していたエジプトは,ほとんど無血でジャウハルの入城を許した。この後,新都アル=カーヒラ(カイロ)の建設が始まり,970年には,イスマイル派の本拠地となるアズハル・モスクが着工された。973年にムイッズがカイロ入りして以来,次代のアズィーズまでは安定した時代であった。しかし,徐々に北アフリカがファーティマ朝を離れ始め,シチリア島,パレスチナ,シリアの経営は容易ではなくなった。北の大国ビザンツ帝国と表面上は友好関係にあったが,シチリア島,シリアの利益をめぐって敵対関係にあった。11世紀半ば以降,セルジューク族が強大となり,11世紀末に十字軍がおこると,弱体化したファーティマ朝は脅威にさらされた。シリアをめぐってセルジューク族と,パレスチナをめぐって十字軍と戦い,ファーティマ朝は多くを失った。内乱・飢饉・疫病の流行などですでに内部的に崩壊していた同王朝は,12世紀後半,十字軍がイェルサレムに建設したラテン王国の攻撃を受けた。1169年,宰相シャーワルを継いだサラーフ=アル=ディーン(サラディン)は,1171年にカリフ=アーディドが死ぬと,アイユーブ朝を樹立した。スンナ派の王朝である。ファーティマ朝の機構は絶対的な中央集権制で,官僚達はカリフのためにあった。しかし第6代目ムスタンスィルのとき,バドゥル・ジャマーリーを招き,アミール=アル=ジュユーシュ(全軍総司令官)の称号を与え,軍務・政務の総責任者とした。以後は宰相(ワズィール)が実権をもつようになった。ムスタンスィルの死後おこったムスタアリーと,のちにイスマイル派の一派を形成することとなったニザールとのカリフ位継承紛争の際にも,バドゥルの息子である宰相アフダルが活躍した。このほか,フスタートを破壊したシャーワル,十字軍と戦ったシーリクーフ,サラディン等が有名である。ファーティマ朝時代には,商工業・文化・学問が大いに発展し,初めてイスラーム=エジプト文化とも呼べるものが形成された。商工業では,ペルシア湾方面で天災・内乱等がおこり,東西交易のメインルートが紅海方面に移ったため,フスタートとカイロはその一大中心地となった。この刺激も受けて,織物業・製陶業・ガラス製造業等が大いに発展した。文化面では,詩・哲学・歴史・地理学等の文化科学,数学・天文学・医学等の分野で多数の高名な学者を輩出した。また宗教関係の学問では,アズハルを中心にスンナ派の教義に対抗するため,厳しい教育と研究が行われ,イスマイル派独自のイデオロギーが完成された。同王朝は,ハナフィー派を除くスンナ諸派に対して敵対関係を保ったが,キリスト教諸派・ユダヤ教に対しては概して寛大であった。

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