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●ファウスト問題 ファウストもんだい

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宗教改革期に人間のさまざまな宗教的禁令からの解放がすすむにつれて、人知を傾けて自然・宇宙の神秘を探ろうとする衝動もまた盛んになった。これは中世神学に対する自然科学のプロテストであり、神の英知に対して人間の悟性が競合することであった。もとより教会からは許されないことである。それゆえに、化学・天文学など、これらの内密の学に携わる者は、魔法を操る者であり、悪魔と密契を結んでいる者として忌避され、多くの学者・聖職者が異端のかどで弾劾された。その者たちは人間に定められた限界を越え、神に対する高慢、反逆の罪を犯したとみなされたのである。ファウスト伝承はそのような精神史的基盤を母胎として生まれたもので、人間性の限界の打破、無限への欲求、絶対的自由の獲得がその中心理念となっている。しかし、そのような理念が現実の壁にぶちあたって砕けるのは自明で、人間存在の枠から脱却しようとして悪魔を客に招いた主人公は破滅の悲劇を味わうのである。宗教改革がドイツに発したように、ファウスト伝承もきわめてドイツ的性格の強いものである。そこに秘められた自由への衝動とその夢幻的な展開および悲劇的な結末は、近世以降のドイツ精神に固有のものといえる。にもかかわらず、伝播の経路は明らかではないが、ファウストの素材はひろくヨーロッパに伝わり、イギリスではマーローの『ファウスト博士』(1604)、スペインではカルデロンの『不思議な魔術師』(1637)が出版されている。題材の新奇さと、提示された問題の深刻さが人心を打ったのであろう。もとよりドイツ文学では、最も重要かつ愛好されるテーマとなり、現在までにめぼしいものだけで10指に余る作品が残されているが、そのうちもっとも注目すべき3篇を選んで、次に紹介する。

【民衆本『ファウスト博士物語』】初版1587年。実在の人物ゲオルク=ファウスト(1480〜1540ころ)の行跡に、それまでに知られていたすべての魔法および悪魔に関する物語が結びつけられたといわれ、そのあとに続く膨大なファウスト文学の草分けとなった。3部から成り、第1部はファウストの経歴、悪魔との契約、天国および地獄をめぐるさまざまの神学論争、第2部は悪魔を友とするファウストの冒険談、第3部は自ら魔法使となったファウストの悪業とその悲惨な最期を伝えている。第1部はキリスト教のかげの面、すなわち悪魔信仰と迷信の初めての文学的叙述として注目されるが、作品の主眼は第3部にあり、ここでは、24年の契約期間が終わりに近づくにつれて増大するファウストの悔恨と、ついに時いたって悪魔にさらわれていく凄惨な末路を通じて、キリスト教徒としての道を踏み誤った人間の罪過の恐ろしさが説かれる。この世界最初のファウスト物語は、否定的形姿を悪しき例としてかかげ、逆説的に正道を指示した範例文学、すなわちキリスト教的警告と教訓の書としての性格がつよい。

ゲーテ『ファウスト』】ゲーテは若いころから死の前年にいたるまでファウストの戯曲化を試みていたが、第1部は1808年、第2部は1832年、彼の死後にようやく公表された。文字どおり畢生の大作である。第1部はグレーチェン悲劇が中心で、悪魔の助力を得て生を享楽するファウストは、少女グレーチェンを誘惑するが、グレーチェンは父なし子を生み、恥じて嬰児殺しをし、処刑される。しかし〈裁かれた〉という悪魔の嘲笑をあとに、〈救われた〉という天上の声に導かれて彼女は昇天する。このようにゲーテの作においては、古いファウスト伝承を受けつぎつつも題材が近代化され、かつ地上における人間の行為のいっさいにあたたかいヒューマニズムの目が注がれている。悪魔との契約も一定の期限が設けられず、人間は理想が充足される〈美しい瞬間〉が来るまで、地上にあって無限の努力を続けることが保証されるのである。第2部はファウストを小市民の世界から〈大きな世界〉へ連れていく。国政に参与し、また時空を超えて古代ギリシアの美の国を体験し、さらに海岸をひろげて、新しい〈自由の土地〉を獲得する干拓事業をおこす。すべて悪魔の援助のもとに行われるのであるが、その悪魔の奸計で、最後の事業が完成したかに錯覚したファウストは、美しい瞬間が到来したものと思い、死ぬ。しかし、悪魔が契約によりファウストの魂をさらっていこうとすると、空から天使の群が舞いおり、その魂を天上高く運んでいくのである。この物語の規模は昔の民衆本の枠をはるかに超え、魔法の要素はゲーテの詩的空想力を縦横に飛翔させるのに役立っているといえる。その空想のもとにドイツと古代ギリシアが結び合わされ、また政治面においても一種のユートピアが建設されようとする。いわば18世紀以降の近代ドイツが、文化面・政治面において抱いた夢がここに提示され、その実現が期待されているのである。そしてファウストの努力には、悪魔的要素にもかかわらず、つねに明るい肯定的な展望が与えられ、最後には神意による救済が用意されている。終末の天使の合唱にあるように〈たえず努力する者は救われる〉のである。元来は宗教的・人道的に否定的な物語であるファウスト伝承に、肯定的な意味転換が行われるのであるが、それを可能にしたのは、人間の主体性を尊び、人間自らの力による人類の改善と進歩を信じる近代ヒューマニズムの精神である。それはまた、その時代の新しい神の観念にも合致するものである。この作品はそのような新しい世界観が活発に息づいていた時代に、現実には文化的にも政治的にも劣悪な状況下にあったドイツにおいて、夢幻的にうたいあげられた人間性謳歌であるといえる。

【トーマス=マン『ファウストゥス博士』(1947)】亡命地アメリカで完成された、マンの晩年のこの長篇小説においては、上述のファウスト問題はおよそ以下のように継承され、変奏され、再創造されている。この物語は、梅毒に感染することによって結ばれた悪魔との契約の結果、主人公は創作活動の絶頂をきわめる、しかし同時に以降、破滅の淵に沈倫せねばならなくなる経緯を哲学者ニーチエの生涯のパロディーという形で活写したものである。この作品の主人公は、『ドイツの作曲家アードリアン=レーヴァーキューンの生涯』という副題が示すとおり、音楽家となっている。それは、音楽こそルターの宗教改革以来の形而上学的で非政治的な伝統的ドイツ精神を、最も典範的に具象化した世界であると、ここで考えられていたからにほかならない。深遠な内面性を誇るこのドイツ文化が、自閉化して政治に背を向け、ドイツがヨーロッパ諸国間で孤立するようになったとき、ドイツはすでに悪魔の掌中に陥っており、ナチスはじつは、このドイツ文化に隠微に内在化させていた悲劇の最終帰結だったのである。この長篇においては、かかる根深い近代ドイツ史の宿命にかかわる契機のすべては現代芸術の終末的危機との内的相関関係という総括的な視座から照射されており、すべては天才的音楽家である主人公レーヴァーキューンの宿命の悲劇に集約的に象徴されてくるという手筈となっている。この文明批評的な小説は、同時にまた作者マン自身の芸術に対する自己審判として書かれたものであるがため、多くのマンの作品のなかでも自伝的色彩のとりわけ濃いものとなっている。以上のような包括的な意味連関をシンフォニックに統合し形姿化させているこの長篇小説は、悪魔との契約、堕地獄、救済への悲願という局面にその基調音をみようとするならば、全体は前述の民衆本のパロディーと解釈できるのである。この作品においては、ベートーヴェンの『第九交響曲』の普遍的ヒューマニズムは根底的に否定され、嘆きと絶望の深淵が窮めつくされており、全体は信仰を超えた奇跡がもしや生まれてきはせぬかという黙示録的な問いでもって終わっている。作品のキイワード解読にかかわる、この問いにどう答えるべきかという最後の課題を、作者は読者の詩的想像力に委託している。総合的にみれば、およそ以下のように解読できる。市民時代のヒューマニズムの高嶺をきわめた、ゲーテの『ファウスト』の場合のように、体験の深化と教養の完成によって人間を救済することは今や絶対不可能となった。文化のすべては最後の審判を受けて破滅するよう、歴史の鉄の因果律によって一部始終決定しつくされている。しかし、問題の核心を複眼視覚的に把握し、同時に別の角度から理解するならば、否定的論証を徹底化していくことこそは、じつは局面を打破し救済の曙光を垣間みるにいたる、唯一の道であったといえる。このような逆説的・弁証法的な方法でもってマンは、ゲーテの『ファウスト』が具現していたような古典的ヒューマニズムをここで最後に喚起することが、ドイツ精神にとって如何に喫緊の責務となってきたかを、ネガティブに暗示したのであった。


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