●閔妃 びんひ
アジア アジア AD1851
1851〜95 朝鮮第26代の高宗(李大王)の王妃。8歳で両親に死別し,閔致禄の養女となった。大院君は第2子が国王(高宗)となると,従来王妃を出した安東金氏を抑えるため,妻の実家である閔氏からむかえ,1866年,王妃となった。高宗は宮女李氏を愛し,王子が生まれると,大院君はこれを王世子としようとした。1874年,閔妃は李拓(純宗)を生むと,これを世子とし,反大院君勢力を結集し,守旧派の黒幕的存在となった。大院君から政権を奪い,国王の親政としたが,実権は閔氏を中心とする一門が掌握し,強力な鎖国攘夷政策をすてて,1876年(明治9),江華条約(日鮮修好条規)を結んだ。開国後は,内に守旧,外に事大を基本政策として開化派と対立した。1882年,反日的反閔氏的軍人の反乱(壬午軍乱)がおこり,閔氏を中心とする高官を襲撃した。閔妃は変装して危うく地方に脱出した。花房公使らも日本に脱出した。大院君は政権を得たが清軍によって天津に拉致された。斉物浦条約が結ばれ,日本は50万円の賠償金と公使館への日本軍駐留を認めさせた。1894年,日清戦争により政権を奪われたが,日清戦争後の三国干渉で復活すると,ロシアの勢力をひきいれて反日親露政策をとろうとした。対抗して公使三浦梧楼は,大院君をかつぎ,日本浪人と朝鮮軍の訓練隊(日本人が教官)を宮中に乱入させ,閔妃を殺させた(乙未事変)。三浦は朝鮮軍内部における訓練隊と侍衛隊との衝突事件のように宣伝したが,真相をかくせなかった。日本政府は三浦や浪人を本国に召還し,形式的な裁判を行ったが,三浦らは証拠不十分で無罪となった。高宗はロシア公使館に保護を求めて移り,日露戦争まで10年間,朝鮮をめぐる日本とロシアの対立がつづいた。
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