●ビルマ戦争 ビルマせんそう
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1824〜26・1852・1885と3回にわたって行われたビルマ王国とイギリスとの戦争。第1回目は国際情勢にうといビルマの拡張主義が原因で,2回目と3回目とはビルマの植民地化を企てるイギリスの挑発でひき起こされた。【第1次戦争】アラカン王国内の混乱に乗じてコンバウン朝のボードーパヤー王は,1784年,陸海双方からアラカンを攻撃,1785年2月,王都ムロハウンを占領した。国王タマダは捕えられ,住民2万人がビルマに拉致された。アラカンがビルマの支配下に入ると,英領インドへのアラカン難民の大量亡命とビルマの支配に反抗するアラカン住民の反乱とが続発するようになった。ビルマは,ベンガルに逃亡した反徒の引渡しと難民全員の送還とを要求,英領インドへは反徒追跡のビルマ軍がしばしば越境侵犯した。ビルマとベンガルとの国境を流れるナーフ川では,川中島シャプリ(別名シンマピュー)島の帰属をめぐってビルマ軍とイギリス軍とが衝突した。それに先だつ1817年には,アッサムの藩侯襲位で内紛が起こり,協力を要請されて出動したビルマ軍が,逃亡する藩侯軍を追跡して1822年5月,英領インドに越境侵入する事態をひき起こした。同じころ,マニプールでも藩侯の跡目相続にからむ内紛が生じ,ビルマに調停が要請された。ところがビルマに擁立された新藩侯がビルマ国王の戴冠式への出席を拒絶したことから,1819年,ビルマ軍の討伐を蒙った。ビルマ軍は英領インドに亡命した藩侯を追ってカチャールの国境を侵犯し,隣接するジャインティアの藩侯にも隷属要求をした。インド政庁は直ちにカチャールの保護領化に踏みきった。そして1824年3月,インド総督は,ビルマ軍による英領インドへのたび重なる侵犯を理由にビルマに宣戦布告した。1826年2月まで続いた第1次戦争でビルマは敗北,ヤンダボーで締結された講和条約にもとづいて,ビルマはアラカン,テナセリム両地方を割譲,カチャール,ジャインティアへの宗主権を放棄し賠償金1,000万ルピーを支払った。
【第2次戦争】戦争に敗れたビルマは,イギリスとの対応にきわめて慎重になった。ところが,1851年6月と7月,殺人事件でラングーン太守から罰金刑を科された英人船長2名が,ビルマ側の扱いを不当としてインド政府に訴えた。両船長への損害賠償請求を決意したインド総督は,同時にラングーン太守の更迭とラングーンまたはアワへの英駐在官の受け入れをビルマ国王に要求,1851年12月,使節を乗せた軍艦を派遣した。新任のラングーン太守と会見できなかった使節は,1852年1月,ラングーン,バセイン,モールメンの3港を封鎖,港内碇泊中の国王所有船を拿捕連行した。1852年2月,使節は100万ルピーの賠償金支払いを内容とする最後通牒を発送,期限が切れた4月軍事行動を開始した。ビルマの王都マンダレーでは,政変が起こり,和平派の王弟ミンドンが王位に就いた。和平交渉が開始されたが,イギリス側は占領地の併合を主張,交渉は決裂した。12月20日,インド総督は,ビルマ側の承諾を得ることなく一方的にペグー地方の併合を宣言した。
【第3次戦争】1884年10月,ビルマ国内でチークの伐採を独占してきた英資本のボンベイ=バーマ貿易会社の脱税が発覚した。ビルマ政府は同社に20万ポンド強の罰金支払いを命じた。この措置を不服とする同社は,事件をインド政府に訴えた。インド総督は,1885年10月,ビルマ政府に対し,罰金課税の停止,総督派遣の調停官の受入れ,インド政府によるビルマ外交の事前承認などを内容とする最後通牒を発した。イギリスとビルマとの間には,それまでにも,国境問題,王宮内での土足禁止と英駐在官の引揚げ,ビルマ-フランス友好条約の締結に伴うフランス企業の利権獲得,ビルマへのフランス勢力の侵透,英系企業の権益擁護といった問題が山積していた。最後通牒はこれらの難問を解決するためインド総督とインド事務相とが仕組んだ強行手段であった。1885年11月28日,ビルマ王ティーボーが英軍に捕えられ,ビルマ王国は滅亡した。