●ビルマ
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正式国名は,ビルマ連邦社会主義共和国。イラワジ川の流域を中心に,東はタイとラオス,北は中国,西はインドとバングラデシュの5カ国と隣接している国。面積は68万平方キロ。人口は3,639万人(1984)。国民の約7割がビルマ族,残りはシャン,カレン,カチン,チン,モンなどの少数民族。首都はラングーン。1948年にイギリスから独立した。【古代史】イラワジ川の流域から石を割いてつくった原始的な打製石器や片面を磨いた磨製石器などが出土していることから,この国ではすでに石器時代から人間が生活していたことは明らかである。シャン台地西部の洞窟で発見された人骨や石器その他の出土品の放射性同位炭素による年代測定によると,ビルマの石器文化は,ほぼ1万1千年前のものとされる。もっとも特定の政治権力が一定の地域を支配して城砦国家らしきものを形成したのは,それより遥か後世の歴史時代に入ってからで,最初の集団定住者はオーストロアジア系の言語を話すモン族であったとみられる。彼らは,オーストロネシア系とみられる先住民族を駆逐してシッタウン,サルウィン両河川の低地平野部に定着し,稲作に従事した。ほぼ同じころ,イラワジ川の流域には,外側を濠で囲みその内側にレンガづくりの城壁を張りめぐらせた防衛的構造の城砦都市がいくつか構築された。住民は水稲栽培に従事し,ヒンドゥー教,仏教を信仰し,南インド系の文字を用いて自分たちのことばを書き表した。彼らは中国では驃という名で知られるチベット=ビルマ系民族の先駆者集団であったとみられる。
【パガン朝】イラワジ川流域に点在していたこれら驃族の城砦都市は,9世紀の前半,南詔の攻撃を受けて滅んだ。その後に進出してきたのがビルマ族で,最初,支流4本がイラワジ川に流入する低湿地チャウセーに定着,つづいてイラワジ西岸の支流3河川の流域ミンブーに進出した。そしてこの両地帯を結ぶ中間地点に,政治上の拠点パガン(蒲甘)を築いた。イラワジ河畔に点在していた小集落19カ村を母胎に形成されたこの都市は,11世紀の中ごろアノーヤターの登場とともに急速に発展した。アノーヤターは象軍団を活用して周辺諸族を征服,1057年にはモン人の都タトンを攻撃して多数の捕虜を連れ帰った。パガンにはモン文化が流入,ビルマ語はモン文字を用いて書き表されるようになった。また,タトンからはパーリ語一切経がもたらされ,上座部仏教がパガンに導入された。仏教に帰依した歴代国王の手によって,パガンの地には多数の堂塔伽藍が建立された。当時記されたビルマ語の碑文によると,パガンでは国王を頂点とする王族を中心に,王族と密接なつながりをもつ貴族,王権に奉仕する役人や軍人,農地を耕作する平民,王族や貴族に所有される奴婢奴隷,仏法僧に奉献された三宝奴隷などの社会階層に分かれていた。250年間にわたって仏教文化の花を咲かせたパガンは,1280年代に元の侵寇を4度も蒙り瓦解した。
【シャン族王朝】パガンに代わって中部ビルマの覇権を握ったのはシャン族で,14世紀の初頭ピンヤ,サガインの両王朝をたてた。この両王朝が北方のマオ=シャン族に滅ぼされると,タドーミンビャーが後を継いで1364年にアワ朝をおこした。アワ朝は,パガンの滅亡後南部ビルマで政治的再統合を実現したモン族のハンターワディー朝と,ほぼ1世紀にわたって抗争を繰り返した。また明の影響を受けた北方のマオ=シャン・モーニン=シャンからも侵略を蒙った。
【タゥングー朝】シャン系王朝の出現に伴い南部へ逃避したビルマ族は,16世紀タゥングーに勢力を結集して国土の再統一を果たした。ダビンシュエティーによって創建されその後継者バインナウンによって確立されたこのタゥングー(洞吾)朝は,火器とポルトガル人傭兵とを活用してアワのシャン系王朝とモン族のペグー朝とを征服した後,チェンマイ,アユタヤ,ビエンチャンといったタイ族諸王国をも支配するにいたった。しかしバインナウンの死後,相次ぐ戦火で国土は荒廃,住民は逃亡して国力の衰退を招き,タイ族諸王国に離反される結果となった。
タゥングー朝は16世紀末にいったん継絶するが,アナウペッルンによって再興された1605年以降は,ニャウンヤン朝と称される。都は,タールン王の治世1635年に再びアワ(アヴァ)にうつされた。当時,アワの王宮は東西の2部に分けられていた。東側には国王が政務をとる役所があり,西側には,王妃・王女・女官たちの館があった。そして東西相互間の往来は固く禁止されていた。国政は,元老(ウンヂー)・元老補佐(ウンダウ)などの重臣で構成された元老院(フルッ)でとり行われ,宮内事務は枢密長官(アトゥインウン)・伝奏官(タンジン)などで構成される枢密院(ビエーダイ)で行われた。枢密院には国王自身が出席した。当時のビルマの社会は厳重な身分制で,住民は,王族を除けば,国王に仕える役人・軍人階層,租税の納入義務を負わされた農民階層,三宝奴隷の子孫である世襲奴隷などに分かれていた。これらの身分は世襲制で,身分の変更移動は認められなかった。身分相続は性別によった。すなわち男子は父親の,女子は母親の身分を自動的に継承したのである。
【コンバウン朝】ニャウンヤン朝は台頭してきたモン族の手で1752年に倒された。このモン・ビルマ両民族の宿命の対決は,上ビルマの猟師村モウソーボーの村長アウンゼーヤ(後アラウンパヤーと改名)によって終止符が打たれ,1752年,コンバウン朝が樹立された。アラウンパヤーは,モン族の伝統的地盤である南部ビルマを平定した後,マニプール・マルタバン・タボイと版図を拡大した。1760年代には4回にわたって清の侵寇を蒙ったがこれを撃退,1767年にはアラウンパヤーの次子シンビュシンが東の隣国アユタヤを征服した。また1785年にはアラウンパヤーの第4子ボードーパヤーが南西の独立王国アラカンを征服併呑して強大なビルマ王国を築いた。しかしコンバウン朝のこの拡張主義は,アッサム・マニプールといったインドとビルマとの中間に存在する小土侯国への宗主権をめぐって当時すでにインドを支配していたイギリスとのあいだに衝突をおこし,1824年,1852年,1885年と3回にのぼる英緬戦争への導火線となった。第1次戦争ではアラカン・テナセリムの両海岸地帯を割譲した上,アッサム・カチャール・ジャインティアへの宗主権を放棄し1千万ルピーの賠償金支払いを負わされたビルマは,1852年の第2次戦争ではペグー地方を奪われ,1885年の第3次戦争では残りの領土をすべて併合されてイギリスの植民地となった。
【独立】英領植民地となったビルマでは,1930年ごろから民族主義運動が勃興,「われらビルマ人連盟」を中心に独立運動が展開されるようになった。第二次世界大戦が始まると,ビルマは1942年3月,日本軍に占領された。1943年8月にはバモーを国家元首とする政権が擁立され,アウンサンを司令官とするビルマ国民軍が編成された。しかしアウンサン指揮下のビルマ軍は1944年8月,共産党・社会党の活動家を加えて抗日戦線「反ファシスト人民自由連盟」を結成,1945年3月蜂起した。連盟は,戦後チャーチルからアトリーへと政権の変わった英国政府を相手に交渉を行い,1948年1月4日,ついに念願の独立を達成した。
【社会主義国家を目指して】独立直後のビルマでは,軟弱外交を非難する共産党や分離独立を主張するカレン族,共産党に同調した人民義勇軍などの武装蜂起が相次ぎ動揺した。政権担当の反ファシスト人民自由連盟も,ヌ対バスエ・チョーニェインといった政治家同志の対立・分裂によって政党政治の弱点を露呈した。1962年3月参謀総長ネーウィンがクーデターをおこして政権を掌握した。1974年,新憲法が公布され,民政移管が行われた。ビルマ式社会主義計画党の一党独裁体制によって社会主義社会の実現を目指す国づくりが,今ビルマでは展開されている。
〔参考文献〕綾部恒雄・永積昭編『もっと知りたいビルマ』もっと知りたい東南アジア6,1983,弘文堂
佐久間平喜『現代ビルマ政治史』1984,勁草書房
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