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●ビールーニー

アジア アジア AD970 

 973〜1050ごろ 中世イスラームにおけるイラン系大学者。中世科学史において11世紀前半に“ビールーニーの時代”を築いた偉大な科学者。同時代の大学者イブン=シーナーと双璧をなすイランが生んだ大学者であるが,イブン=シーナーほどには西欧に知られなかったのは彼の著作がラテン語に訳されなかったからである。しかしイスラーム世界では高い評価を受け,“巨匠”の異名でも知られたほどである。

【数奇な生涯】アラル海南方のフワーリズム地方の首都カースの郊外に生まれ,ビールーニーと号した。25歳まで郷里で過ごし,この間にイスラーム諸学をはじめ,アブル=ナスル=マンスールに師事して数学を学んだ。その後郷里を出立した彼は,カスピ海東南岸の町ジュルジャーン(現在のゴルガーン)やレイ(現在のテヘラン南郊)に赴いて天文学や医学を修めた。ジュルジャーンで後述の名作を執筆し同地の王に捧げた。その後郷里に戻った彼は,同地の小王朝の王マームーンに仕えたが,当時日の出の勢力を有したガズナ朝のスルタン=マフムードの招きで,もしくは強制的に連行されて,1017年ごろ同朝の都ガズナにいき,スルタンに星占術師として仕えた。彼のガズナ滞在は没するまで続いたが,この間にスルタンのインド遠征に数回随行して同地に長く留まり,インドの学者たちと接触しインド研究に没頭した。スルタンが1030年に没すると,後継者スルタン=マスウードに10年間仕え,さらにその息子スルタン=マウドゥードにも没するまで仕えた。

【数多の著作】彼の著作は大小合わせて180編の多きに達し,イスラーム世界が生んだ最も独創的で批判精神の旺盛な博学の学者にふさわしく,その優れた見解は多方面にわたって新境地を開拓した。青年時代から天才ぶりを発揮した彼は,ジュルジャーン滞在中,27歳のとき,『古代諸民族年代学』を執筆して同地のジヤール朝カーブース王に捧げた。本書においてはユダヤ教,キリスト教など異民族の暦法・祭礼も述べられているが,重要な部分は古代ペルシアやイスラーム期における暦法・年代学に関する記述で,ゾロアスター教徒の暦法,ソグド人・ホラズム人の祭礼,イラン人の各月の祭礼行事などはきわめて貴重な資料であり,この分野における研究としては現在でも高く評価されている。彼の著作の中で最も名高いのが『インド誌』で,中世インド研究に不可欠な歴史的記録である。インド滞在中の研究成果の集大成である本書はスルタン=マフムードの死の直後に完成した。本書にはインドの言語・文学・哲学・法律・地理・天文・習俗などあらゆる分野にわたる記述がなされ,中世インドの百科全書とも評され,イスラーム世界に真のインドを理解させ,後世の著作に大きな影響を及ぼした。この書の完成の前年1029年には,幾何学・算術・天文学・占星術に関する要約書をも執筆した。彼の第3の代表的箸作は,1030年にスルタン=マスウードに捧げた天文学の百科全書『マスウード典範』である。スルタンはこれに感激して象一頭が運べるだけの銀貨を恩賞として贈ったが,彼はそれを断わり,晩年に静かな研究生活を過ごせるように援助を求めたと伝えられる。スルタン=マウドゥードの治世に執筆したのが鉱物学の分野の『宝石に関する書』である。以上の著作の他にも彼は『サイダナの書』として知られる『薬学の書』をも執筆し,“薬学の父”としても彼は高く評価されている。同書は2部からなり,第1部は薬学序説であり,第2部は薬草を主体にその使用法や効果がアルファベット順に詳述されている。

 彼はすべての書物の執筆に際して母語であるホラズム語やペルシア語を用いずに当時のイスラーム世界共通の学術語であるアラビア語を用いた。彼によれば,ペルシア語は文学語としては優れているが,学術語としては厳密さに欠けるという。彼の一部の著作は中世にペルシア語にも訳された。

〔参考文献〕矢島祐利『アラビア科学史序説』1977,岩波書店

黒柳恒男「アル・ビールーニーとインド」『印度学仏教学研究』14巻,1号 1965