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●毘盧舎那大仏 びるしゃなだいぶつ

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 東大寺の本尊の盧舎那仏は,正式には毘盧舎那といわれるもので,十方に光明を放つ太陽を象徴し,その光明によって迷える人々を蓮華蔵世界に生まれさす力をもつ仏だと理解されている。この仏の浄土の蓮華蔵世界は,全世界の人たちが悟りの境地に入れるようにと願われた盧舎那仏の大きな願望が成し遂げられた結果,荘厳された浄土で,『華厳経』で説く理想の世界である蓮華蔵世界の上に坐し給う大仏の造顕の思想は,この世を蓮華蔵世界すなわち理想の世界にしたいという聖武天皇の大慈悲心のあらわれにほかならない。そして東大寺は,聖武天皇の発願で,光明皇后のすすめによって創建されたと伝えられている。すなわち,天皇は,即位後20年たった743年(天平15)10月15日に,盧舎那(るしゃな)仏をつくるための詔勅を出し,そのなかで次のようにいっている。「率土の浜,已に仁恕に霑(うるお)ふとも雖も,而も普天の下,未だ法恩に浴さず。誠に三宝の威霊に頼りて,乾坤相泰(やすら)かに,万代の福業を修めて,動植咸(ことごと)く栄えこむことを欲す。……国銅を尽して象を鎔(とか)し,大山を削りて以て堂を構え,広く法界に及ぼして,朕が知識と為す。遂に同じく利益(りやく)を蒙らしめ共に菩提を致さしめん。夫れ天下の富を有つ者は朕なり,天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る,事や成り易き,心や至り難き。……如更に人の,一枝の草一把の土を持ちて,像を助け造らむと請願する者有らば,恣(まま)に之を聴(ゆる)せ」(『続日本紀』天平15年10月辛巳条)。

 最初に大仏を鋳造しようとした場所は,近江の紫香楽宮(いまの滋賀県の信楽地方)で,この工事は744年(天平16)に始められた。だが,それが失敗に終わったので,こんどは平城京の東の端の現在地に建立されることになった。この工事が始まったのは747年(天平19)9月29日で,前後8回にわたって流し込みをし,ついに3年後の749年(天平勝宝1)10月24日に完成した。752年(天平勝宝4)に,孝謙天皇御臨席のもとに,盛大に開眼供養が行われた。また,天皇がこの事業を思い立った直接の動機は,ようやくのことに日本という国号をもった統一国家を建設した天皇家が,その絶大な権力を唐をはじめ諸国に誇示するとともに,ともすれば動揺しがちな国内の政情を仏教をひろめることによって乗り切ろうとする意図があったようである。

 「信貴山縁起」の尼公の巻に描かれている大仏は,現在のものとは非常に違う。当時の大仏は鍍金によって金色をしているが現在の大仏は青銅色である。手の位置は同じであるが,天平のものは仏身が金色であったほかに,頭の螺髪(らほつ)は紺青で,唇は赤色だったらしい。とくに違っているのは,光背と大理石の蓮台だ。かつては金銅蓮弁の下に2重蓮台があったようだが,いまではこれが花崗岩の石段になっている。また,光背の化仏(けぶつ)は,天平のものには536あったが,いまのは11だけだ。当時のもので現存しているのは,蓮弁の蓮華蔵世界の一部と,大仏殿の正面にある金銅大燈籠だけにすぎない。大仏殿も,かつては高い石の基壇の上に立っており,正面11間の和様の建物で,真ん中には丹塗りの板扉があり,両端は白壁であった。これらのほとんどが現存していないのは,源平時代と戦国時代とに2回も兵火のために大仏殿が焼失したためで,現在の建物と大仏は,元禄時代に再建されたものである。ただし大仏は,胸から下部にかけては,ほとんど原形のままであるように思われる。現在の大仏は,その高さは16m,螺髪の数は966,耳の長さは3m,顔の長さは5.28m,鼻の高さは96cm,目の長さは1.18mである。

〔参考文献〕平岡定海『東大寺の歴史』1966,至文堂

平岡定海『東大寺辞典』1980,東京堂出版

奈良東大寺大観刊行会『東大寺』1968,岩波書店

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