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●平泉 ひらいずみ

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 岩手県西磐井郡平泉町で,11世紀末から12世紀末まで約100年の間続いた奥州藤原氏の都で,黄金文化で飾られた古代都市であった。

【平泉の地理的位置】北上川がその東を南北に流れ,北上山地の支脈束稲山(たばしねやま)が川を西に押しやっている。その対岸は,奥羽山地の支脈平泉丘陵が東に張り出し,その間が狭い平地をなしている。現在は,北上川が平泉丘陵のすぐ下を流れているが,往時は,束稲山沿いに流れていた。平泉丘陵の北を衣川が東に向かって北上川に注ぎ,10km南には磐井川が東に向かって,同じく北上川に注いでいる。北上川を底辺として三角形状に,川に囲まれている地塊が平泉丘陵で,この丘陵上に中尊寺などが建てられた。丘陵と,束稲山沿いに流れていた北上川との間の平地に,往時の平泉の町があったという。北上川は南から,あるいは,北からの物資をこの地にもたらす交通路であった。この地は水陸の要衝の地であった。8世紀末蝦夷(えぞ)の反乱に,律令政府は衣川営を設けて対抗するが,この地にそれが設けられ,その後,この丘陵上に衣川関が設けられ,関山といわれた。

奥州藤原氏の都平泉】奥州藤原氏の初代清衡は,11世紀末にあたる嘉保年間に,江刺郡豊田館(江刺市)からこの平泉に本拠を移したので,平泉の歴史は始まる。清衡は摂関家に貢金・貢馬,あるいは,荘園を寄進し,その政治的保護のもとで,この氏の基礎をつくった。2代基衡はこれを受けて,その権力をさらに拡大したので,中央政府が脅威を受けるほどになった。3代秀衡が鎮守府将軍,ついで陸奥守に任ぜられたのも,平氏政権が鎌倉の頼朝を牽制するためであった。また,頼朝と仲たがいした義経をかくまったので,頼朝と対立することになる。秀衡の時が平泉の最盛期であった。秀衡が死ぬと,4代泰衡は頼朝の圧力に屈し,義経を殺したが,自らも征伐され,この戦いで平泉の寺・町の多くが焼け,平泉の時代は終わる。

【平泉の金色文化】清衡は中尊寺を,基衡は毛越寺を,秀衡は無量光院を建立した。中尊寺は現在金色堂・経蔵を残すだけであるが,往時は多宝寺・釈迦堂・大長寿院・両界堂などがあった。金色堂は金銀螺鈿(らでん)の荘厳を極めた巻柱,螺鈿の須弥壇(しゅみだん)など,堂内全体が金色に輝いていた。堂内には4体のミイラが納められている。毛越寺は,往時の建物は残っていないが,浄土庭園の遺構はほぼ完全に残っている。池の南に南大門,北に金堂があり,その両端に経蔵・鐘楼があった。これが円隆寺で,その西隣に,これと同じプランの嘉勝寺があり,中間の北に講堂があった。その他,常行堂・吉祥堂・千手堂などがあった。基衡の妻の建立した観自在王院は毛越寺の東隣にあり,大阿弥陀堂・小阿弥陀堂があって,前面にあった池の遺構は復元されて,往時が偲ばれる。無量光院は,堂内の荘厳さと建築のプランは,宇治平等院と全く同じで,四周に池をめぐらし,阿弥陀堂の姿が水に映るようになっていて,前面に塔のある中島があった。これらの藤原氏の建立した堂塔はすべて金銀螺鈿などをちりばめていて,光り輝いていたという。このような豪華絢爛たる堂塔を建立したのは,藤原氏の所有していた金銀財宝と,その権力によって,中央から招いた技術者や技術によってなしえたものである。かく,いわゆる平泉文化の花が平泉の地に咲き誇ったのである。

【観光都市平泉】平泉文化を彩った建物は,頼朝の奥州征伐で破壊され,中世末にはほとんど姿をとどめなくなってしまう。以後の平泉は,中尊寺・毛越寺の寺内町的な様相を示すにすぎなくなったが,わずかに残る金色堂・経蔵・毛越寺の浄土庭園無量光院跡・観自在王院跡,また,義経の最後の地義経堂などをめぐり,はなやかだった往時を偲ぶ観光客が多い。

〔参考文献〕高橋富雄『平泉-奥州藤原四代-』1978,教育社

板橋源『北方の王者-平泉藤原氏-』1976,秀英出版