●無泊民 ひょうはくみん
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【概括】定住地をもつことなく,各地を放浪しさすらって生計を立てている人々。具体的には船を住居として動く家船で暮しをたてる人々。漂海民もそのなかに含まれるが,山民としてのまたぎ,山窩や木地師,たたらやきで暮しをたてる人,広義にとると,漂泊芸能民ともいうべき門付,萬歳,春駒,唱門師,座頭,瞽女(ごぜ)のごとき遊行に生きる人々。さらに乞食,遊行僧のごとき人をもそのなかに含まれる。この名称は定着民・定住民に対する語であった。農耕生活によって暮しが安定する前は,いいかえると本格的農耕生活に入る前は,火田民のごとく移動暮しをしなければならなかった。そうしたころには漂泊民ということばすらなかった。いいかえると定住性・定着性が成立してからこの語が成立する。また,古くから船住まいをして,潜水して魚貝その他を採集する海人の一群も漂海民である。その反面,山から山を移動して歩く,山中漂泊民たちも存在していた。金子も,木地師もそのなかに入る。またぎも,たたらやきの人もその中に入っている。これらは漂泊労働者群に入る。【中世の平民】中世の平民は職人や下人所従と異なって自由民であった。本来,公田耕作者としての子孫であったものが多く,その生活の基盤をかえている。彼らは,武装・移動の自由さえもっていた。徒党を結んで起請文をかき神水をのみ,一味同心し,逃散したり還住したり年貢皆済すると罪にならなかった。村においては家として認められる存在であった。名田を年々充作する浮浪性はもっていたのである。今日のわれわれは定住民を当り前のことのように考える。「非人」・乞食・聖のごとく遊手浮浪の人々がいることも,それがその人々だけでないこと,一芸の上手な人で,都の能に恥じざる人がいて,定着しない漂泊民としてその人がおり,だれの管理下にも属さない人がいる。そして浮浪人に近い“乞食非人”とつながりをもつ人がいたこと,“大衆”より疎外されながらも衆人愛敬の対象となる人々でもあった。中世の都市は田畑と区別され,地と呼ばれていた。そのことは地方頭人,地口銭,地百姓,地上衆という名称とかかわる。地とは家地,郭地,屋地,田地,畑地,山地,野地,村地ともかかわる。そのため京地・鎌倉地・六波羅地,あるいは無縁地とつかわれる。そうしたところは無縁と近いところがあった。人民というのは,人民百姓とともに庶民・土民・衆民・諸民・平民・平人・凡人を含むものである。その点,百姓のごとく耕作し貢租を負担するものとは異なる。人民は庶民,蒼生でまったくのあおひとをくさの意味をもつものである。働く人々の意といってよい。したがってこれらの人々は,必ずしも定住民・定着民である必要はまったくない。米生産を中心とする水田中心史観が,山民や漁民の地位を低く考えさせている。そして中世における山地,海岸,河川湖沼の地域の人々の暮しのイメージを乏しくさせた。資源による労働の機会を求める山民は,木地師,ヒョウ,タタラ,炭焼き,金掘など非定住民である。海民の大半は漁民化する。山海河沼は共有の論理が働いていたのが分割所有となるのは,中世に入ってからであり,農民の山海河沼へのかかわりを規制し禁制していく。浮浪民に対し,飢饉のとき,その食糧確保のためには,領主はとろろ・魚や海藻の用益権を主張して,浪人たちを救済している。普通のときは殺生禁断をしているのは,山民その他の暮しを守るためである。ただ,ときとしては,これら農民たちにもその機会を与えることがあった。狩猟には農作物をあらす野獣を退治する目的,作物の保存を目的とするものであった。山伏は山内不入権の特権をもっていた。また霊場という山浜通りをのぞく縄張りを回遊・遊行して暮しを成り立たしていた。その点からすると,一時は,漂泊民ということさえ可能である。これもしだいに少なくなっていった。