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●評定所 ひょうじょうしょ

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 [1]鎌倉幕府・室町幕府の審理裁判機関のこと。鎌倉幕府では裁判の管轄機関は,はじめ問注所であったが,1225年(嘉禄1)に執権北条泰時が元老級の有力御家人の代表者や公家出身の政務に精通した人々11人を選んで評定衆に任じて以後,裁判の判決は評定衆が集会して審議する“評定所”に移った。ついで1249年(建長1),その下に御家人の訴訟を専門に扱う引付衆を置き,鎌倉幕府裁判制度が確立した。室町幕府はその組織をそのまま継承した。

 [2]江戸幕府の最高の審理裁判機関で,将軍・老中の諮問機関の役割も兼ねた。江戸幕府創業時代の慶長期(1614年ごろ)にすでに創置されていたが,1635年(寛永12)に評定所の条規が制定され,評定所の寄合日,構成員である評定衆の出退時刻,審理の進め方,公事(くじ)の手続きなど,評定所のあり方が整備された。はじめ大老・老中・町奉行(江戸町奉行のこと)らの屋敷で会合が行われ,のち辰の口の伝奏(でんそう)屋敷の1部を使っていたが,1661年(寛文1)同所内に新たに評定所として独立の庁舎がつくられた。8代将軍吉宗による享保改革時の1721年(享保6)には,その門前に目安箱(めやすばこ)が設置された。政治改革の参考にするため,一般庶民の進言・要求・不満などを直接に知るためだった。

 評定所の主体は,寺社奉行・町奉行・公事方(くじかた)勘定奉行の3奉行で,これを評定所一座といい重きをなした。評定所の寄合には,このほか大目付・目付が出席し,老中も毎月1回陪席し,場合によっては側用人および在府中の京都所司代遠国奉行らが傍聴することもあった。

 江戸幕府の司法制度は行政と分掌せず,寺社奉行・町奉行・勘定奉行の専管にかかわる訴訟については,それぞれ各奉行の手限(てぎり),あるいはそれぞれの奉行の月番宅で同役と配下の人々による毎月3回の内寄合(うちよりあい)にもとづいて審判した。すなわち,民事事件である出入物(でいりもの)の場合,全国の寺社・神官・僧尼および寺社領の人々の訴訟は寺社奉行が,江戸の町民・江戸にある寺社領の住民・江戸町役人などの訴訟は町奉行が,全国の幕領と関八州内の私領の訴訟は勘定奉行が受訴奉行となって訴訟を受理して,その奉行の管轄内で処理された。また刑事事件である吟味物(ぎんみもの)では,犯罪地を支配する奉行または郡代・代官の管轄で決するのが原則であった。しかしこの分掌内で専決し難いものは評定所に送った。

 したがって裁判機関として評定所が管轄するのは,出入物(評定公事)では,寺社奉行支配下と町奉行支配下とのあいだの訴訟のように原告と被告とが異なる奉行の管轄下に属する,支配違の事項で各奉行のみの権限では裁判が下せないもの,および武家を相手取る訴訟であった。また吟味物(詮議物)では,安政の大獄・桜田門外の変など国家的重大事件,3奉行各自の管轄に属するものでも,先例が無かったり疑義があったりする事件など,各奉行内では専決し難いもの,あるいは上級武士にかかわる事件などであった。ただし訴訟そのものは原告を管轄する3奉行が受理するが,受理した奉行が主任となって評定所で審理し,その裁決は評定所でなされた。

 老中はじめ3奉行とも平常は営中あるいは自身の役宅において執務をしなければならないから,評定所において審理評議をする日が定められていた。これに式日(しきじつ)と立合(たちあい)の二つがある。式日は毎月2・11・21日の3日で,3奉行のほか,大目付一人,目付二人が出席し,そのうち1度は老中も出席した。そして支配違の重要な訴訟,事情が錯綜して容易に判断できない訴訟および重大な事件を裁判した。立合は,変遷もあったが,のちには毎月4・13・25日の3日で,3奉行のほか,目付が一人出席し,支配違の通常の訴訟を裁判した。なお吟味物(詮議物)のためには臨時に五手掛(ごてがかり)・三手掛(さんてがかり)を設けて裁判することもあった。五手掛は重い身分の者の犯罪および国家の大事に関する事件を糾問するために設けるもので,3奉行各一人のほかに,大目付・目付各一人が列席した。三手掛というのは,御目見(おめみえ)以上の武士の犯罪を糾問するために設けるものであり,町奉行,大目付および目付各一人が列席した。評定所一座の審理が多数決により決しないときは,反対意見も付して老中に上申して裁決を請うた。その場合,老中から評定所一座に対し再吟味を命ずることもあった。それでも決し難いときは将軍の直裁を仰ぐことになる。

 評定所において,3奉行は評定所固有の役人ではない。また3奉行の審理および評定の実務を担当するのは,評定所留役(とめやく)であったが,この留役もまた3奉行所よりの出役であった。寺社・町奉行所よりの留役は評定所に常駐ではなかったが,勘定所支配下の留役の場合は,その数十余人もあって,つねに評定所の事務に従い,組頭をおいて統轄させた。その俸禄は勘定所の勘定組頭および勘定衆と同じであった。また目安読も儒者の出役であった。したがって評定所固有の役人としては,評定所番(評定所留守居ともいった)・評定所同心・書役などがあったにすぎない。

 評定所は幕府の諮問機関としても重要な役割を果たした。すなわち,政務の得失につき老中の諮問に答えたり,各奉行から老中に提出された仕置伺(しおきうかがい)に関し,老中の下向に応じて評議・答申したりした。

 最後に評定所一座は,公事方御定書(くじかたおさだめがき)や先例によって,奉行の判決の当否を検討して,老中に評議書を提出し,老中はその結論を奉行に指令するのがつねであったから,評定所は判例をある程度統一する機能を果たしたといわれている。裁判所としての評定所が編纂した民事判決録に,「裁許留」,諸奉行などから老中への伺いに対する評定所の評議を5回にわたって集めたものに「御仕置例類集」があり,また評定所が4回にわたって編纂した法令集に『御触書(おふれがき)集成』がある。

〔参考文献〕『古事類苑』官位部・法律部,吉川弘文館

松平太郎『江戸時代制度の研究』1919,武家制度研究会

石井良助『日本法制史概説』1948,弘文堂