●ピューリタン革命 ピューリタンかくめい
ヨーロッパ 英国 AD1640 前期スチュアート朝
1640〜60年のイギリス市民革命。【体制の動揺】エリザベス1世時代の末期から王政に対する社会の不満は増大しつつあったが,1629年議会の決議としての「抗議」をうけたチャールズ1世は直ちにこれを解散,以後11年にわたって議会の開会なしに専制政治を行う(ロード=ストラッフォード体制)。ところで1639年王はスコットランド教会に英国教会の諸儀式を強制しようとして反抗にあい(主教戦争),それによる財政難打開のために1640年4月議会を召集(短期議会),議会は王の要求に応じなかったため直ちに解散されたが,問題が解決したわけではなく,同年11月再び召集された(長期議会)。
【革命の第1段階】議会は三年議会法の制定,専制に責任ある国王側近の処刑,星室裁判所・高等宗務裁判所の廃止,議会の同意なしに関税を課すことを禁止したトン税・ポンド税法の制定など専制の基礎を相ついで崩壊させるとともに大諫奏を提出して,議会のこれまでの諸立法を維持し,また今後国民の自由と正しい宗教をまもることを約束させた。しかし王はこの約束を無視し議会弾圧をもって反撃したので,1642年8月内戦がはじまった。議会は国王大権を認めたうえで,これに制限を課そうとするものと議会主権ををかちとろうとするものとに分裂し,前者の人たちは国王側についた。なお国教会廃止法案は否決された(1641年10月)。
【第2段階】議会軍ははじめ苦戦をつづけたが,東部連合軍の編成や「厳粛な同盟と契約」(1643年9月締結)にもとづいて到来したスコットランド援軍の加勢によって,マーストン=ムーアの戦い(1644年7月)以後形勢を逆転した。この時期の政治の主導権は当初議会の多数派である長老派にあったが,内戦進行中しだいに議会軍に基盤をもつ独立派の発言力が増大し長老派と対立した。1645年2〜4月独立派は新模範軍への再編を行わせるとともに軍の指揮権を長老派から奪い(辞退条例),ネーズビーの戦い(1645年6月)で大勝,王は1646年8月スコットランド軍に投降した。一方議会軍のなかには独立派とレヴェラーズとの対立もあった。王はこの間隙を利用して監禁の身から脱出し,長老派およびこれと結びつくスコットランド軍の援けをえて軍をおこしたので,1648年再び内戦となったが,独立派およびレヴェラーズは一致してこれを破り王を捕えた。同年12月独立派は議会から武力で長老派議員を追放し(プライド=パージ,これ以後の長期議会を臀部議会または残部議会という),翌年1月王を処刑し共和政を樹立した(このときスコットランドも統治下におかれる)。
【第3段階】共和国にはレヴェラーズとの紛争,アイルランドやスコットランドを拠点に政権回復を企てる王党派の反抗,植民地や海上権の支配をめぐってのオランダとの対立など解決すべき多くの問題があった。これらに対し共和国は1649年のレヴェラーズの反乱の鎮圧とアイルランド征討,1650年のスコットランド遠征,1652〜54年のイギリス-オランダ戦争などを行ったが,これらは政治の支持基盤の狭隘化を招いた。1653年4月,クロムウェルら指導部は軍の左派(ハリソン派)と結んで臀部議会を解散,同年7月「指名」議会(ベアボーン議会ともいわれる)を開いたが,その後ハリソン派と対立して,12月これをも解散,直ちに独裁的権限をもつ護国卿を中心とする軍政を発足させた(その憲法は統治章典)。しかし1658年クロムウェルの死後国政は混乱した。フリートウッドによる臀部議会の復活(1659年5月),ランバートのクーデタによる議会の解散(1659年10月)ののちスコットランド駐留軍司令官マンクは自己の指揮下にある軍隊を率いてロンドンに入り,急進派をおさえ,長期議会を復活させ(1660年3月),王政復古をなしとげた。
【王政復古】王政が復活したとはいえ,これを革命前の状態への単なる復帰ということはできない。星室裁判所などの大権裁判所や議会の同意なしの税制も復活されなかったし,後見裁判所の廃止(1646年2月)や航海条例(1651年10月)は改めて法制化を行ったりして改革の継承がはかられている点に注意せねばならない。
〔参考文献〕浜林正夫『増補版イギリス市民革命史』1971,未来社
越智武臣『近代英国の起源』1966,ミネルヴァ書房
今井宏『イギリス革命の政治過程』1984,未来社