●白蓮教の乱 びゃくれんきょうのらん
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中国,元・明・清の各代に生じた宗教的色彩をもった秘密結社が母体となった反乱。弥陀と極楽浄土の信仰にもとづく念仏結社として成立した白蓮教は,貧しい農民層のなかに急速に勢力を築いた。そのためもあって,宋・元代を通じてしばしば禁圧を受けたが,かえってそのつど秘密結社的形態を強め,民間信仰的・邪教的要素も加味していった。社会情勢が安定を欠き,それに乗ぜんとする野心家の扇動にあうと,たちまち強大な反抗勢力となりうる。元代末期には,白蓮教はそこまで成長していた。【元末紅巾の乱】1351年(至正11),兵をあげた韓山童・劉福通の集団は,河南・安徽の北部を席捲した。湖北で天完国を称した徐寿輝・彭瑩王の集団。そこから分岐した明玉珍。さらに,のち明の太祖となる朱元璋の属した郭子興の集団など,すべて白蓮教の組織を母体とし利用したものであった。しかし,韓山童の場合にみられるごとく白蓮教を称しながら,弥勒仏の化身をも名乗るように,本来異なる弥勒教との合体が明らかになる。すでに,この時期に純粋な白蓮会組織は消滅し,名称のみが用いられていることを証明できよう。
【明代白蓮教の乱】明代初期には,元末の白蓮教の乱の余燼がくすぶっていたが,中期に入ると新たな流民が発生し,それが白蓮教的要素によって結合し,反乱に趨るケースが散見する。1465年(成化1)に湖北を中心に,劉千斤・石和尚に率いられた反乱は,流民を糾合し4万人に達した。また1526年(嘉靖5),李福達は陝西で教線をひろげ,中央政府の高官をも巻き込んだ疑獄事件をひきおこした。のち,四川で白蓮教を名乗って乱をおこした蔡伯貫も,李福達の系累につながっていたという。一方,明の弾圧を逃れた教徒は山西北部から,アルタン=ハン治下の内モンゴルに移住し,新天地を開いた。彼らは開墾事業に従事するとともに,アルタン=ハンの保護のもとに国内の教徒と連絡し,ハンの中国侵入を援助し,明を悩ませたこともあった。これらの事実からも白蓮教組織の拡大・浸透ぶりを知り得よう。
【明末白蓮教の乱】1622年(天啓2)5月,山東の白蓮教主徐鴻儒は,河北の新興宗教である聞香教の教徒と結んで乱をはかった。聞香教は王森によって指導され,河南を中心に河北・山東・安徽から陝西にまで勢力をもち,ことに上納金をもとにした豊かな財力で貧民をひきつけた。教義的には不明な部分が多いが,シャーマニズムに末劫説・救世主出現説をもっていたと思われる。乱をおこした徐鴻儒は,自ら中興福烈帝と称し,大成興勝との年号を定め,山東各地を攻略し北京への糧道を絶ったが,3カ月で鎮圧されて終わった。この反乱の際,街路が紅巾をかぶった白蓮教徒で埋め尽くされたとか,落城の際も西天極楽へ昇ることを希い,だれ一人投降しなかった,などの記事は教徒の団結力を伝えている。時あたかも,明は亡国直前の混乱期であったため,人々が救いを宗教に求めたことも,この乱を強大化した要素であった。
【清朝・白蓮教の乱】1796年(嘉慶1)大反乱がおこった。康煕・雍正・乾隆とつづいた盛世のあいだ穏やかであった社会も,乾隆の後半に入ると騒がしくなった。1770年代,河南・安徽の教首によって反乱の準備がなされていた。1794年(乾隆59)白蓮教徒の反乱計画が洩れ華北各地で教徒狩りが行われた。これは湖北・四川に及び強烈をきわめた。追いつめられた教徒たちは湖北西南部で,ついで襄陽で,さらにこの年のうちに陝西・四川が蜂起し,翌年華北五省に波及した。延べ数十万人が参加したという。そのスローガンは〈清朝を打倒し,漢人の世を招来する〉とあり,三世思想にもとづく,未来楽土の到来が今であるとし,死をもってすれば来世に好処ありと励まし,顔に入墨をして団結を固めた。しかし,その力を政策や組織へ具体化することなく,清軍と義勇軍として組織された郷勇の前に潰え去った。この白蓮教の乱は清朝の威信を落とし,清軍と支配層および財政にも大打撃を与え,以後清朝は下降の一途をたどる。
〔参考文献〕鈴木中正『中国における革命と宗教』1974,東京大学出版会
『中国民衆叛乱史』3・4,東洋文庫,1981〜82,平凡社