●百姓一揆 ひゃくしょういっき
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百姓一揆とは,近世封建社会において,基本的な階級対立関係にあった封建領主階級と農民階級とのあいだで闘われた階級闘争をさしている。端的にいえば,将軍・大名を上にいただく武士階級と,彼らに支配される百姓・町人のうち,本百姓を中心とする農民階級とのあいだで展開された闘争であり,それは幕藩制社会における基本的な階級闘争であった。近世において,農民の基本的階層を構成していた本百姓層にとって,封建的諸負担の軽減が最も切実かつ重要であった。後期になれば,それに商品流通の自由(封建権力による専売制の反対)が一揆の目標に掲げられた。したがって,年貢の減免をはじめとする封建貢租・諸税・夫役などの封建的負担の軽減や,小商品経済が発達するにつれての営業の自由などを要求して,一揆が組織され,闘われることになる。
【一揆の様式と一揆の非合法化】一揆の闘争様式としては,蜂起・強訴・越訴・逃散などの諸形態があるが,いずれも非合法の手段として禁止されていた。また訴願の形態としてみたばあいに,駕籠訴・門訴・駆込訴などもあった(愁訴・嘆訴は合法的手続きによる訴願に用いられた)。幕藩体制下において,幕府=公儀の方針として,越訴・直訴は非合法として禁止され,諸藩もおおむねこの方針に従ったが,なお箱訴(目安箱)などを容認して一定の手続きのもとでの直訴を残した。また筋違訴(支配違いの奉行所への訴願)も違法とされたが,事実上はしばしばみられたところである。なお,一揆とか百姓一揆の語は幕藩法令の上では公的な称呼としては使用されず(もちろん世上一般には用いられたが),幕藩領主権力は法の上ではあくまでも徒党・強訴・逃散などと称し,いずれも非合法的なものとして厳しく禁止して,違反者に対しては厳罰に処した。一定の手続きをへた訴願については,これを合法的訴訟として受理したが,現実にはなかなか実現が困難であったがために,百姓たちは非合法な手段に訴えざるをえなかったのである。一揆の指導者(首謀者・頭取・重立者)が領主権力から張本人とされ,また彼らも一揆をおこすにあたり,刑死を覚悟して事にあたったゆえんである。
【初期一揆】近世全体を通じて,約3,200件の一揆件数が知られる。初期一揆としては,幕藩体制成立期の17世紀初期には,中世末期の村落支配者だった土豪=地侍層が兵農分離が強行される過程で,旧特権的身分を否定されて百姓身分に固定されたのに反発,彼らはその下に隷属する下人・小百姓らを動員して新領主の入封に反対した1600年(慶長5)土佐浦戸一揆や,過重な年貢・夫役に反対して一村皆殺しにされた1609年の常陸小生瀬騒動などの初期一揆は,いずれも領主権力によって弾圧された。なかでも寛永10年代(1633〜42)の連年にわたる飢饉を背景に,領主松倉・寺沢両氏の苛政=厳しい年貢取立てと過酷な諸役負担に反対する在地旧土豪層に指導(天草四郎時貞を大将とする)された島原・天草一揆(島原の乱)は,一揆農民の精神的紐帯としてのキリスト教によって,宗教的に団結して闘われた武力蜂起であり,土豪一揆の掉尾を飾るのにふさわしい大一揆であった。近世初頭には数多くの検地反対一揆が発生したほか,小規模逃散や走り百姓の事件が頻発したが,いずれも幕藩体制が確立するにつれて抑圧されてしまった。それに代わって17世紀中ごろ以降になると,村落秩序と支配体制の確立した段階に対応して,近世村落を基盤とした村役人層の主導する訴願闘争が登場する。佐倉惣五郎に象徴される代表越訴一揆が,この時期の一揆の特徴だった。17世紀末,とくに元禄期(1688〜1703)以降の小商品生産の発展に伴う農民層の成長は,封建的諸矛盾が醸成され噴出するようになるとともに,これまで村役人層の背後にあって代表越訴を支えてきた本百姓たちを結集させた。その最も早い例が1686年(貞享3)の信濃の多田嘉助騒動である。つまり強訴という大衆的行動が,元禄期以降18世紀になると各地の一揆においてみられ(また強訴の折に打毀しも併発してくるが,1696年(元禄9)の但馬出石領一揆においてみられたのがその早い例である),平百姓層が闘争の前面に登場する。たとえば1709年(宝永6)の常陸水戸藩の一揆では3,000人余の百姓が江戸藩邸へ門訴し,また1711年(正徳1)の安房万石騒動では江戸出訴を名主ばかりでは心許ないというので,惣百姓600人が江戸藩邸へ門訴に及んだのは好例である。
【全藩一揆と広域闘争の時代】享保期(1716〜35)になると,幕府の質地条目の公付をめぐって1722〜23(享保6〜7)年に越後と出羽で質地騒動がおき,幕藩権力の末端に連なり庇護下にあった村役人・地主層への打毀しがおきたが,幕領ではむしろ定免制実施に伴う幕府の年貢増徴政策に対する夫食・種貸要求の強訴と弾圧(1729年(享保14)陸奥信夫・伊達両郡一揆)にはじまる年貢減免をめぐる一揆がふえた。この流れは1749〜50年(寛政2〜3)の陸奥国のうち磐城・岩代地方一帯に席捲した“幕藩総百姓一揆”と表現される大一揆となった。一方都市でも享保期になって打毀しが本格化しはじめた。享保の飢饉による米価騰貴のために1733年(享保18)江戸などの都市で米一揆(米騒動)が惹起された。宝暦の飢饉のあった1755年(宝暦5)東北地方では百姓一揆と都市打毀しの同時発生的な状況が早くもおきている。宝暦〜天明期(1751〜88)になると,小商品生産のいっそうの発展は生産者農民の成長を促したが,一方,封建領主権力は農民の営為の成果である小商品生産物を専売制によって強力的に搾取した。それに対して農民は小商品生産と流通の自由(専売制の廃止)を要求して立ち上がった。それは村役人=地主層(村落上層部)をもまきこみながら,一般百姓層(小商品生産者),貧農・小作人層を全藩的に統一・結集させた全藩一揆(たとえば,1754年(宝暦4)筑後久留米藩一揆,1786年(天明6)備後福山藩一揆など)として展開した。また幕領・私領(大名領)・旗本知行所といった支配領域の相違を無視して,新たな封建的搾取を意図して実施された幕府経済政策に反対する広域闘争(1764年(明和1)伝馬騒動,1781年(天明1)上州絹一揆など)も注目される。これは“農民闘争における新しい質の発生の明らかなしるし”と特徴づけられたように,百姓一揆の質的転換を示すものだった。階級闘争の新段階を画しつつ,天明の大飢饉による1783年(天明3),1786−87年(天明6−7)の江戸・大坂をはじめとする全国的な一揆・打毀しの大高揚と相まって,当年の人民闘争は幕藩制支配を大きく動揺させた。
【一揆禁令の頻発と一揆弾圧体制の完成】このような情勢は,〈そこもここも一揆徒党の沙汰にて……そろりそろりと天下のゆるる兆〉だという出羽米沢藩の藩政改革派藁科貞祐のことばが示すように,封建領主層の危機感を生んだ。また一揆の展開に対応して,幕府は享保期以降しばしば一揆の禁令を発して一揆の弾圧を強化していたが,明和年間(1764〜71)には,繰り返し一揆禁令を出した。明和後半にいたって1769年(明和6)一揆鎮圧に際して鉄砲の使用も認められるようになり,さらに徒党・強訴・逃散の禁止,密告(訴人)の奨励と懸賞を高札で徹底させる(1770年(明和7))などの一揆弾圧体制を完成させていった。
【国訴】天明期の大高揚のあと,寛政期(1789〜1800)には一揆・打毀しは下火になるが,19世紀に入って文化〜文政期(1804〜29)には,いくつもの大一揆が各地に発生した(1811年(文化8)豊後岡・臼杵・熊本・延岡・大分・島原・中津諸藩に連鎖的に波及した一揆,1814年(文化11)越後蒲原・岩船・古志各郡に波及した一揆,1822年(文政5)丹後宮津騒動,1825年(文政8)信濃赤蓑騒動など)。また1823年(文政6)には摂津・河内1,007カ村が参加,翌24年には摂津・河内・和泉1,037村が参加した国訴が畿内でおきた。これは一揆の形態をとらないが,農民諸階級層が在郷商人の指導のもとに,都市特権商人を相手どって流通独占反対を,幕府(大坂町奉行所)に合法的訴願闘争でたたかった農民闘争として注目される。
【天保期の一揆情勢】天保期(1830〜43)は1831年(天保2)の防長一揆で開幕,連年に及んだ天保の飢饉は1833年の播州一揆,1836年の甲州一揆(郡内騒動)・三河加茂一揆,1837年の大塩平八郎の乱,1838年の佐渡一国騒動などに示される一揆・打毀しの再度の大高揚期であった。とくに甲州一揆・加茂一揆は幕末に広範に展開する世直しを志向する闘争の先駆として注目されよう。水戸藩主徳川斉昭が,12代将軍徳川家慶に幕政改革を上書(1839年,天保10)した「戊戌封事」のなかで,内憂外患として外国船の接近とともに大塩平八郎の乱やこれら諸一揆に言及したが,これは封建領主の危機意識の表白として有名である。
【幕府倒壊期の一揆】幕末期のマニュファクチュアの進展は,農民層内部に大量の半プロ層を創り出し,マニュ経営にのりだした豪農層と半プロ層(マニュに従事する没落農民が多い)との新たな対立が,農村内部に生み出された。とくに安政の開港以後の急激な物価変動は,中農以下の農民層のいっそうの窮迫化を推し進めたので,貧農・半プロ層を主体とする世直し(世均し,経済的平等を求める社会変革の芽生え)の闘争が,幕末一揆の中心となった。さらに慶応期(1865〜68)にいたって,幕長戦争に伴う内乱状況は全国的に世直しを激化させた。とくに1866年(慶応2)の江戸・大坂の前期プロを闘争主体とする打毀しは,百姓一揆と同時的におきて正に町から町へ,町から村へ,村から村へ,村から町へと速やかに波及・伝播,局地的動乱化の様相を呈し,同年の武州一揆・奥州信達一揆・幕長交戦地の一揆などとあわせて,幕長戦争に苦戦する幕府権力に大きな打撃を与えた。近世最大の高揚を示した1866年の人民闘争は,翌1867年(慶応3)の“ええじゃないか”の民衆運動とともに,江戸幕府滅亡の原動力となったのである。なおこの時期の百姓・町人の反封建意識の成長にはめざましいものがあったことは想起されてよい。
【村方騒動・義民・農民思想家】百姓一揆の背景には村方騒動があって,村役人の不正追及・庄屋=名主の交代要求・共同体内部の特権否定・負担軽減など村の民主化闘争が日常的に行われた。その意味では,近世を通じて騒動がおきなかった村は一つとして存在しなかったといってよいだろう。一揆は,年貢率の固定・新規負担の改廃・幕藩政改革の促進などの成果により,幕藩制国家の動向を規定した。また佐倉惣五郎・磔茂左衛門・松木長操をはじめとする各地の義民創造を伴う一揆伝承は,農民の思想的な主体形成の基盤となった。さらには幕末の三浦命助(1853年(嘉永6)陸奥南部三閉伊一揆)・菅野八郎(1866年,陸奥信達一揆)のようにそれ自体優れた農民思想家であるとともに,一揆とも深い関わりをもつ人物も登場してくるのである。なお近年は,一揆周辺の問題として,蓑笠などの一揆の出立ちや,得物=持ち道具,太鼓・ほら貝・ときの声など一揆の音,一揆の旗・幟(村印)などがフォークロアの面からも着目され出している。
〔参考文献〕林基『百姓一揆の伝統』正・続,1955,71,新評論
深谷克巳『百姓一揆の歴史的構造』1979,校倉書房
歴史科学協議会編『農民闘争史』上・下(『歴史科学大系』22・23),1973,74,校倉書房
青木美智男他編『一揆』全5巻,1981,東京大学出版会
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